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#14 写真家・藤岡亜弥「写真で食えるか?」(2020.2.28&3.06)

今回の会議相手は写真家の藤岡亜弥さんです!

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藤岡さんは広島出身で、2019年に広島をテーマにした写真集『川はゆく』で「写真界の芥川賞」と言われる木村伊兵衛賞を受賞したスゴイ人。広島文化系的にはぜひ押さえておきたいクリエイターなのですが、会議前半のテーマはズバリ「写真で食えるか?」。ブンクリで「クリエイティブとオカネ」は永遠で最重要なテーマですが、話はモロにそこに突っ込んでいきました。

いまは東広島の山の中に住んで、地域おこし協力隊の仕事をやってるんです。それは写真とは関係なく。収入は……最近はこの仕事のおかげで安定してますが、作品を作るためにこれまでいろんなアルバイトをしてきました。今も写真だけで食べていけるかと聞かれたら不安です。だってみなさん、写真集って買います? 写真集って見ます? 写真集なんて買いませんよね。ってことは写真集作ってもお金にならなくて、私はどうやって暮らしていけばいいのかって話ですよ(笑)

ズバリ「写真家=お金持ち」というイメージをお持ちの方は、すぐにその観念を捨てた方がいいでしょう。写真家でリッチになれるのは、広告などを撮影する一部の商業カメラマンのみ。自身の作品として写真を撮る作家性の強い写真家は、それで食べていくのはキビしいというのが現状です。

私は誰かから頼まれて撮るコマーシャルの仕事ではなく、ずっと自分のために写真を撮ってきたので、どうやって写真で食べていけばいいかわからなくて。そういう仕事やりたいけど、営業の仕方がわからなかったんです(笑)。だから東京にいるころは中国語を使って貿易会社に入ったり、ベビーシッターをやったり……とにかくいろんなことをやって食いつないでいった感じです

波乱万丈すぎる「写真家・藤岡亜弥」の人生を最初からたどっていきましょう。まず大学は日本大学芸術学部写真学科。最初から写真やりたかったんですか?

高校のときラジオオタクで『夕べのひととき』とか聴いてたんです。それで進路を決めるとき、先生にラジオが好きって言ったら、「日芸に放送学科があるぞ」って教えてくれて。で、受験したけど落ちちゃって、もう浪人するくらいなら川に飛び込みたいって思いながら歩いているときにフト壁を見たら「写真学科と音楽学科はまだ願書受付中」って書いてあったんです(笑)。んで、受けたら通った。無茶苦茶ですよね。写真に全然興味のない私が写真学科に入ってしまって、今も写真をやってるんですから……人生どこでどうなるかわからないです

ラジオをやりたいはずなのに、はずみで写真学科に入ってしまったデタラメ大学生(しかも一発合格)。そんなノリなので2年生までフィルムの入れ方も知らず、友達男子に入れてもらう始末。でもそこに転機はありました。

1枚の写真を先生に褒められたんです。それは電車で見かけた子供の写真。子供を撮るっていうと、みんなハッピーで元気のいい、明るい未来を撮ると思うでしょ? でも私が撮ったのは都会の片隅に置き去りにされた、寂しそうな子供の写真で。そこから東京を歩いて、そういう子供を撮っていったんです。本屋の前で地べたに座って絵本を読んでてランドセルの横に鍵が付いてる子供、スーパーの前で段ボールの上に寝かされてる子供……自分のテーマがわかったら、カメラを持って夢中になってほっつき歩きました。そこから下宿先の床の間を暗室にして、引き伸ばし機も買って頑張るんです

1枚の写真をきっかけに火が点いた写真への情熱。その勢いですぐに16人参加の写真集『シャッター&ラヴ』(1996)に収録されるってスゴイ飛翔っぷり。この写真集、いわゆるHiromix以降の「ガーリーフォト」の象徴で長島有里枝や蜷川美花と同列にいたわけです。下のコレ、表紙は市川実和子だ!

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さらに、そこからの動きが破天荒な藤岡さん。台湾に渡り大学に通ったかと思えば、ヨーロッパを放浪、アーティストビザを取ってNY在住……こうして聞くとめちゃくちゃカッコいいけど、相当ハードな生活だったとか。

台湾では日式しゃぶしゃぶ店に住み込みで働き始めたんですけど、そのうち北京語の学校に行ったりエセ日本語教師したり(笑)。当時自分が写真家だという意識はどこにもなかったですね。ヨーロッパを放浪したときは貧乏旅だったし「写真撮って何になるんだろう?」って気持ちがあったんです。だけど日本に帰って現像してみたら、「こういうことあったんだな」とか「こういう人と出会ったんだな」っていうかけがえのない時間が写っていてハッとしたんです。写真の役割として「記録が記憶になっていく」みたいなところがあるじゃないですか? その旅の作品が、グランプリをいただいて写真集になったんです

それがコチラ『さよならを教えて』(2004)。なんか歌謡曲の題名みたい。

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写真に向かっていたわけではないのに、常に写真がそばにあり、結果賞をとったりで写真に引き戻されていく藤岡さん。それを才能というのかどうか……いろいろあっても「常にそばに置いている」のが重要なんでしょう。

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そしていよいよ後半は木村伊兵衛賞受賞作品『川はゆく』について。写真集にはこんな写真が入ってます。

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この作品は2012年に広島に戻ってから撮りはじめて。最初から何かを狙って撮ることはしませんでした。ヒロシマを撮ろうとすると、どうしても「悲劇の街」のイメージを自分で勝手に作って追ってしまう。あまり考えると撮れなくなるので、とにかく街を歩き回りましたね

藤岡さんの視点で切り取られたのは、フシギな風景。普通の地方都市・広島のようでいて、75年前に惨禍に遭った・ヒロシマのようでいて……「広島とヒロシマの境目を流れる川のように」といったら伝わるものでしょうか?

最初は自分が「ヒロシマ」を扱うのは、恐れもあったし照れもあった。そんな大きなテーマに向き合える自信もなかったのでどうしていいかわからなかったんです。私たちは平和教育を受けた世代で「平和が大事とか言われなくてもわかってるよ!」って部分もあるし、そんなこといまさら私が言ってもどうなるんだろうっていう気持ちもあって。アタマで考えていたら写真をやめたくなりました……だからとりあえずなんでも撮ってみよう、と。そしたら私が気付かなかったことが写真に浮き上がって、逆に写真に私が教えられたという体験でしたね

わからないからとにかく撮る。そうしたら写真が探していたものを教えてくれる……そこには藤岡さんが知らなかった写真のチカラがあったようです。

私がいま東広島にいるのは、写真集を作るのはお金がかかるのでアルバイトでは追いつかなくて。「私、写真に夢中になりすぎて働くの忘れてたわ」ってところもあるんです(笑)。実際写真で地域おこしができるなんて考えたこともなかったんですが、去年地域の人を集めて写真教室をやったんですよ。過疎化が進む地域ですが、みんなにこの土地のいいところを撮ってもらって、それをポスターにしようっていう。参加してくれたのはみんな高齢者、写真なんてやったことがない人ばかり。だけどやっていくうちに写真を通して心を開いていく感じが目に見えて伝わってきて。いい写真が撮れると撮った方も撮られた方も嬉しくなるというコミュニケーションが成立する。さらに、これまで何気なく暮らしているのに写真に撮ったとたん「ここにこんなものがあったんだ!」っていう発見があって、見え方が劇的に変化する。私自身が生活と写真についてあらためて考える機会をもらっています。ここでの私の役割は写真文化をみんなに知ってもらうことでもあると思いはじめたんですよ

そんな藤岡さんが思う、今の写真に必要なものとは?

いま新しいものってなかなかないじゃないですか。たとえば北極に行ってオーロラ撮ったといっても、ネットで見たことあったり、それほど新鮮じゃないと思うんです。じゃあ何が新しいかというと、私たちが日頃、暮らしてる街の中で「見てると思っていたけど見てなかったもの」を提示するのがこれからの写真に求められてるものなんじゃないかなって

「見てると思っていたけど見てなかったもの」を見せるのが写真家の仕事。食えなくても、家賃が払えなくなっても(実話)、だから写真はやめられない――藤岡さんのすがすがしさを目の当たりにすると、そういう「揺るぎない何か」を持ってる人の強靭と幸福を感じざるを得ないのです。

うん……大変だけど、私は「写真」で遊んでるようなもので、仕事というより「ごほうび」みたいな感覚。好きなことをやっているんだから、多少生活が苦しくてもがんばります!!(笑)

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2020.2.14@HFM

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