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アルジェリア万歳!〜ジッロ・ポンテコルヴォ監督『アルジェの戦い デジタルリマスター/オリジナル言語版』(1966)

 7月4日(日)、雨天。先月に引き続き、高田馬場・早稲田松竹にて映画を視聴。ジッロ・ポンテコルヴォ監督『アルジェの戦い デジタルリマスター/オリジナル言語版』である。

 1980年代から、数年に一度ながら、ビデオ、DVDで見返してきたものの、映画館で見たことはなく、オリジナル言語版(フランス語・アラビア語)の劇場公開も見逃していた。ちょうど再視聴を考えていたところだったので、タイムリーな上映はありがたかった。40年近く前、初めて見たときは、そのリアリティに驚愕した作品である。ちなみに、従来版はイタリア語。今回、オリジナル言語版を鑑賞後、自宅にて旧版のDVDも見た。

 内容は、タイトルから容易に想像できる。1950年代の北アフリカ・アルジェリアの植民地解放闘争を活写したものである。独立運動側の爆弾テロや発砲と、支配者側フランスの、これまた爆弾や拷問などによる負の応酬の連鎖。陰惨なストーリーである。

 舞台は首都アルジェ。カスバ地区の入り組んだ街の造りは、遠い異国の街の持つ隔絶感を醸し出す。また、ヨーロッパ人居住地区の瀟洒な雰囲気には、入植者が街を造ると大体こんな風になってしまうな、と妙にステレオタイプを感じさせる。なお、同じくアルジェがロケ地のルキノ・ヴィスコンティ監督『異邦人』(1967)では、首都の相貌はカラーで映し出される。2つの映画を並べると、やはり色彩があった方が生々しいが、モノクロには、モノクロ独特の乾いた迫力がある。

 テロを仕掛ける独立運動側は、FLN(民族解放戦線、Front de Libération Nationale)を中心に描かれている。次から次へと繰り出される破壊と殺生、そして市街戦。アルジェリア女性の爆破活動への協力もめざましい。対する仏側の暴力は、警察と軍隊による白色テロ。こちらも爆発物を使用。独立運動壊滅を指導する空挺師団の中佐は、ノルマンディーやインドシナなど歴戦の勇士。本作唯一のプロ俳優とされるジャン・マルタンが演じ、クールで格好がよいが、浮き上がっている印象も。

 繰り返し言うが、映画は暴力の連続。シンプルと言えばシンプルだ。

 支配者側によるカスバでのアルジェリア人活動家の捜索場面は、ナチスによるユダヤ人ゲットー解体の悲惨な光景に似る。

 映画における拷問シーンは、回数・時間という点では多くないが、植民地支配の陰惨さを表すのに必要十分である。

 注意を要すると感じたのは、階級闘争的な側面が強調されていないところである。ゼネストの場面も入れているので、実際の運動にはコミュニズムの影響も少なからずあったと推察する。経済闘争的視点が弱い半面、宗教色が強いかと言うとそうでもない。独立運動のバックボーンがイスラム教であることを示唆するようなシーンもある。かといって、信仰の力を前面に押し出しているわけではない。中庸を保とうとする姿勢を感じる。

 確実に強調されているのは、アルジェリアの人々の「怒り」と「憎悪」である。しかし、闘争手段はテロばかりではない。FLN主導のゼネスト決行に際しては、武力闘争の是非が議論される。

 旧版でも新版でも、サルトルの声明に触れるところがある。この部分は、旧版の翻訳では史実を知らないと少し分かりにくいだろう。この箇所に限らず、全編に渡って新と旧のバージョンの訳文には、異同が見られるようである。新版のブルーレイを持っていないので、細かい比較はできないが、じっくりチェックすれば、こういった政治性の強い作品に対する、映画配給側の配慮の違いや変遷も見えて来るかもしれない。

 新旧で趣旨に変わりがないと思われた翻訳として、また印象に残った箇所としては、アルジェリア解放に対する国連の動きのナレーションがある。以下は、旧版の当該字幕。

「国連ではアルジェリア問題は過半数を得られず直接介入を避ける点で合意に達したに過ぎなかった」

「結論として国連憲章を尊び平和的・民主的に問題が解決されることを望むと表明されるにとどまった」

 この映画、伊監督・ロッセリーニのネオ・リアリスモの影響があるというのが定説。確かにリアリズムは強く感じるが、イデオロギー的にはエイゼンシュタイン『戦艦ポチョムキン』の系譜に連なる作品と理解。階級や植民地の問題を平和的・民主的に解決することの困難さを示しているところは、『戦艦〜』の流れを汲むと考えられる。一方、非暴力的なストライキを有効手段として提示するシーンは相違点と受け止めた。

 近代フランス国家は、自由・平等・博愛を掲げた啓蒙思想の産物であったはずである。しかし、当時の先進国革命のその先には、植民地争奪競争すなわち帝国主義戦争が待ち受けていた。1962年のアルジェリア独立は、被支配国が解放されるはずだった大戦後の世界で、執拗につきまとう支配の触手を振り払おうとする画期的事件であった。

 戦後、世界各地で民族解放運動の勝利があったにもかかわらず、依然として、支配は手を変え品を変え、あるいは地下に潜行するかのように続いている。新たな植民地主義に対する抵抗。『アルジェの戦い』を今日見る意義はここにあるのではないか。

 かつて、フランクフルト学派のマックス・ホルクハイマーとテオドア・アドルノは、反ユダヤ主義の根底に啓蒙を見出した。野蛮からの解放をもたらすはずだった理性に基づく啓蒙が、逆説的に野蛮をもたらしたとラディカルな批判を行ったのである。啓蒙は、帝国主義の蛮行を、続く全体主義の野蛮を乗り超えることはできなかった。

 野蛮が、死に絶える気配はない。そして、「理性」の時代も続く。

 

 

 

 


 

 

 

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