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国際報道→人道支援→キャリアコンサルタント「つぎ足す」生き方を語る

私の仕事道#1 五島三保子さん

フランスへの語学留学後、ひょんなことがきっかけで国際報道の現場に入り、15年取材に奔走しました。赤十字では20年余り国際的な活動に関わり、今はキャリアコンサルタントをしています。振り返ってみると、フランス語や転機での「ご縁と運」がつないでくれた道であり、同時にキャリアを「つぎ足す」生き方だったと思っています。

【略歴】宮崎県生まれ。1980年から仏テレビ局TF1の極東支局に勤務。その後、米APTNの東京支局などで激変するアジアを取材。1996年に赤十字へ転身し、自然災害や紛争地での人道支援活動などに従事した。現在はキャリアコンサルタントとして活動している。


「何かになる」きっかけを探して、フランスへ

大学を卒業した後、一度就職しました。社長秘書として仕事に励んだものの、ゼミの先生の紹介で渋々入った経緯もあり、自分の中が何か満たされない。ただ将来「何かになりたい」とは思っていましたので、きっかけを探すつもりで“海外遊学”することに決めました。しばらく滞在するぐらいの貯金はありました。

1978年、退職してフランスに向かいました。ヨーロッパなら別にどこでもよかった。当時はドイツのマルクより、フランスのフランが安くて、同じ日本円なら、フランスの方が長く滞在することができたのです。フランス語は大学の第2外国語で選択したこともありましたが、動詞の活用をいくつか覚えたぐらいしか記憶になく…再挑戦です。

最初はパリの語学学校に4〜5カ月通いました。パリは素敵な街ですが、日本人が結構多くて。フランス語の勉強に集中するには田舎の方がいいなと思い、中部にあるヴィシーの学校に移りました。そこで半年。ホームステイ先は、ご夫婦と小中学生の子どもたち3人が暮らす家です。3階建てで、イタリア、ドイツの留学生も一緒でした。ヴィシーでは授業が終わってもすることがないから、みんなでおしゃべり。これが随分、口を動かす訓練になりましたね。

フランス国営放送TF1でプロデューサーに

帰国後、もっと学ばなきゃと思って、都内のフランス語学校を訪ねてみると、掲示板で「ランゲージ・エクスチェンジ」の個人広告を見かけました。友達になって、お互いに言語を教え合いましょう、というものです。連絡してみると、ラジオ・フランスの男性ジャーナリストでした。フランス国営放送はラジオ・フランスのほか、TF1などテレビ数波を擁していました。ある時、彼から「極東支局に秘書の日本人女性がいて、彼女が夏休みの間、代わりに働いてくれる人を探しているけど、君どう?」とアルバイトを紹介されました。

「いいですよ」と気軽に応えましたが、国際報道に長く関わるきっかけになるとは、その時は思ってもいませんでした。

秘書の女性は夏休み後すぐに辞めてしまったため、私が呼び戻されました。その後、番組制作に関わるようになり、アシスタントを経てプロデューサーに。仕事は現場で覚えました。当時は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代。フランスには日本に対する羨望の眼差しと、自分たちの産業が追いやられる恐怖が入り混じっていました。自動車産業など経済の取材が多かったですね。

ミッテラン政権下の1987年にTF1は民営化。国営放送時代を含めTF1には9年在籍しました。極東支局はアジアの拠点でしたので、韓国やフィリピンにも東京から頻繁に通いました。民主化運動の熱気を肌で感じた取材でした。

多忙な毎日が続きましたが、同じところに長くいて仕事に慣れが生じると、ドキドキするようなチャレンジが少なくなってきて。他の環境に身を置きたいと思うようになりました。

TF1時代、マイクの前で

「うちに来ない?」国際報道各社を渡り歩く

TF1の後、いくつかの放送局で仕事をすることになりました。置かれた場所で、目の前のミッションに一所懸命に取り組んでいたら、ありがたいことに転機で「うちに来ない?」と声をかけてもらうことが多かったですね。

経済ニュースを手掛けるスイスのテレビ局から声をかけられた時のこと。これはチャレンジだと思って、TBSの協力も得て東京オフィスを開設しました。ところが、放送衛星の打ち上げが失敗して会社は倒産。慌てて事務所を整理することになったのです。

「さよならパーティー」を催すと、出席したNHKのチーフプロデューサーから「うちで今度、海外の放送局向けの番組を始めるんだけど、来ない?」という話に。それで1990年から4年間、経済番組「JAPAN BUSINESS TODAY」に参加しました。欧米スタイルに徹して制作した英語番組で、米ABCやCNBCなどで放送されました。

番組終了後は米AP通信の映像通信部門APTNから誘われ、東京支局を立ち上げました。本社から「ロイターTVに追いつけ、追い越せ」とハッパを掛けられる中、阪神・淡路大震災やオウム真理教事件などの取材で走り回りました。オウムといえば、青山の教団本部前でインタビューした、ロシア帰りの覇気のない青年信者が、数日後にはさっぱりと身なりを整え、弁舌巧みな広報部長として登場したことに驚きました。

任務を果たしてフリーになったら、今度はARDドイツテレビの東京支局から声がかかり、お手伝いすることに。

ドイツテレビでは、1996年にフランスが南太平洋のタヒチで強行した核実験再開の取材が、一番大変な思い出です。誰もフランス語を話せないから「今から来てくれ」と朝に呼び出され、昼前に事務所に着くと「今夜タヒチに行ってくれ」と言われました。タヒチの高等弁務官に連絡したり、機材の通関手続き書類を作成したり、現地のアシスタントを雇ったり。「息つく暇もない」とは、まさにこのことかと思いました。空港には事務所からタクシーで向かわざるを得ず、途中に自宅に寄って大急ぎでパスポートや荷物を詰め込みました。TF1時代にも夜中に電話がかかってきて、翌日の一番早く飛べる便に乗ってくれ、という取材がありましたね。国際報道では段取り力が鍛えられました。

赤十字への転身、国際活動の現場で

私の中では「国際報道はやり切った。別の世界で仕事をしたい」という思いがくすぶっていました。人道支援の分野に自然と目が向いたのは、子どものころから「社会」に関心を持っていたからでしょう。国境なき医師団のボランティアに参加しましたが、仕事には直結しそうにありません。国連ボランティアにも応募しました。

転機は1996年5月末でした。朝日新聞に「日本赤十字社の海外派遣を外部に開放 研修会開催」という数行の記事が載っていました。赤十字は紛争や自然災害で傷ついた人々を救う使命を帯びて活動しています。「これだ!」と直感しました。

研修後、最初に派遣されたのは赤十字国際委員会(ICRC)がカンボジアで運営している義肢製作所でした。マネジメントの仕事です。この時はまだ赤十字の価値観や哲学、基準が自分の中に染み込んでいなかったため、物事を判断する場合、何を根拠に自分がどのように振る舞えばいいのか分からず、苦労しました。

次に向かったのはケニアとその周辺国です。難民キャンプの支援活動に入る中で、番組をつくったことも。撮影も編集も私1人。放送局時代には自分でカメラを回したことはありませんでしたが、どういう画がほしい、何が要らないかはわかっていますから、制作するのはお手の物です。映像はスイス・ジュネーブの欧州放送連合(EBU)を通じて配信されました。アフリカに支局のないヨーロッパの放送局を中心にニュースで取り上げられ、現地の実情を伝える一助になったと思います。

空爆後のコソボ、タリバン政権下のアフガニスタン、大地震が襲ったインドネシア、大型ハリケーンが直撃したハイチにも派遣されました。そこでは復興プロジェクトの人事や予算管理を任されることが多かったですね。不安定な状況下では、どの国の人が悪いというわけじゃなく、人間ですからどうしても不正が起こりがちです。でもそれをさせない、させるような状況をつくってはいけない。嫌われても憎まれてもいいから、日赤に寄付された善意をきちんと正しく使い切って活動する、それに徹しました。

2010年のハイチ派遣

赤十字時代の終盤、2013年から5年間は当時の日赤社長・近衞忠煇さんを支える仕事に関わりました。近衞さんはアジアから初めて国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)の会長に選出され、2期目に挑戦するところでした。選挙は1期目と同じく、ベネズエラ赤十字社のビラロエル社長との一騎打ちです。激戦が予想されていました。

そこで夕方になると、私は日赤本社からアフリカのフランス語圏の赤十字社に国際電話をかけます。時差があるので、向こうは午前中です。社長や事務局長に「近衞が立候補しますので、何卒よろしくお願いします」と地道に支持を訴え続けました。

まさかフランス語がこんなところで役に立つとは思いませんでした。フランス語圏の人にはやっぱりフランス語で話さないと。フランス語圏の人って、フランスに対する憧れやフランス語への執着心があるから、反応が全く違うんですよ。大方のフランス語圏は押さえられ、近衞さんの再選を勝ち取ることができました。

「つぎ足す」という生き方

選挙後は、ジュネーブにある連盟事務局との連絡・調整など、近衞さんの会長職をサポートする業務に当たりました。毎日会社に通うなら、早起きして時間をつくって何か勉強しようと思い立ち、放送大学の認定心理士コースで学びました。週末には養成講座にも通って、キャリアコンサルタントの国家資格を取得しました。

現在は独立して、職場の人間関係や自己実現など悩んでいる方を対象にカウンセリングをしています。相談者の話をじっくりお聞きして、一緒に解決策を探っていきます。ここが私の現在地です。

もし今の私のキャリアで20代に戻れるなら、きっともっと広い視野で判断できたでしょうし、新卒で入った会社を辞めるのはもう少し遅かったかもしれません。ひょっとしたら、もっと一直線に何かをしていたかもしれない…と思うこともありますが、私の場合は「つぎ足す」生き方でした。

横に曲がるでもなく、元に引き返すでもなく、初めからやり直すでもない。キャリアをつぎ足しながらの人生。太い直線じゃないし、ギザギザだったり、かすれたりもしていますが、自分なりの一本道を描いたつもりです。仕事や人生で迷っている人には「つぎ足す生き方もあるよ」と伝えたいです。



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