「おもひでぽろぽろ」②共感と記憶
①の続きです。
子どもの頃に何度も観た「おもひでぽろぽろ」の映画。大人になってから観たのは初めてです。
人の記憶は以下のどちらかがないと記憶に残らないということをこの映画を通して気付かされました。
■共感する
■共感がなくとも想像して理解しようとする
解説させていただきます。
・
映画を観ながら驚いたことは、主人公、タエ子の小学校5年生の子どものシーンは明確に覚えているのに、27歳の大人になってからのシーンはほとんど記憶に残っていなかったことです。
高畑監督作品の魅力の一つは、日常生活の些細な仕草を映画の中にさりげなく大切に組み込んでくれることです。思わず「そうそう!」「わかるわかる。くすっ。」という具合に。それも映画に引き込まれる要素。
でも、その「そうそう!」「わかるわかる。くすっ。」は私自身の体験があるからこその共感です。
子どもの頃の私にとって、小学5年生のエピソードはまさにオンタイム、共感しまくっていたのだと思います。小学5年生のシーンが映画全体にどのような意味を反映しているかなんて、もちろん考えることなく、ただタエ子ちゃんに自分を投影。
それに対し、大人のタエ子の内面や発言の心理、彼女を取り巻く人々の意識、環境… これらがこの映画の醍醐味だと、今回、改めて気付かされました。
子どもの私には想像に及ばない世界だったわけです。なんなら30代前半くらいまでの私にとっても理解に及ばなかったと思います。
人と向き合うと意識したり、畑をやり出して自然の厳しさを目の当たりにしている今だから、ようやく理解し始め、自然と共感できるようになったのかなと…。
人は共感がないと、または共感出来なくても想像して理解しようとする気がないと、結果的に記憶に残らない、ということなのだと思わされました。
となると、記憶は事実とは異なる世界なのだと思うのです。
大人のタエ子は田舎に憧れながらも東京で会社員として働いています。長期休みを取り、田舎に農作業の手伝いに行きますが、そこで田舎の憧れを強くしていく。でも、それはとても表面的。農作業の体験をしているだけ。それでも自分は色々とわかったような気になってしまう。
私も畑をやり出して、当初はもう酷いものでした。それでもやっていることだけで十分頑張っているくらいに考えていました。
そして農業で生きているわけではないから、収穫できなくても生活に関わるわけではない、という甘さは常に自分の中にあり、趣味に毛が生えたくらいの感覚でした。
基本的に、楽観的で、何とかなると思っている自分がいます。そんな自分がまさにタエ子と重なる。
タエ子は会社でお給料の面は満たされていても、心が満たされない状態。これもよくある話だと思います。だから田舎への憧れが強くなっていく。
でも、いざ田舎に飛び込み「表面的な生き方は出来なくなる、その覚悟があるのかい?」と問われると、思わず逃げ出してしまうタエ子とまたもや自分が重なる。
だからこそ、タエ子の本当の試練はこれからだ…というのが映画を見終わった感想でした。でもそうやって、葛藤を乗り越えることで人は成長していく、人間味が増してく…。まるで自分に言い聞かせているようにタエ子に語りかけている自分がいます。
そんな経験を重ねるほどに、表面的ではない、深い部分の共感が出来る自分になっていくように思います。
その結果、同じ物事でも、受け止め方が変わってくる。この映画をここまで味わい深く観ることが出来たのも、今だからこそだと思います。
・
高畑監督の作品は、人間のそんな「ちょっと嫌な部分」「でも誰にも在る部分」を粋に描いてくれています。
私は表面的に生きてきたくせに、人間の内面がとても興味深く感じています。だからこそ、タイムウェーバーという機械での深層心理分析セッションをやっています。
自分の心の奥深くに向き合うことは怖く感じるかもしれないけど、誰もが持っていることで、そこを客観的に考えられた時に、人生はまた味わい深くなるのだと今は思っています。
おもひでぽろぽろからの考察、③に続きます。③は過去の記憶が書き変わることについてです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?