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ほのぼの日和#11この国に支援は必要か。

平均気温23度前後、首都から離れるごとに水道や電気が通っていない地域が広がる。すぐ近くには鶏やヤギがのんびり草を食べ、鳥たちがさえずる。緩やかな時間が流れる、この国にDevelopmentなんて言葉は似合わないのではないか、そう指導教官は私に言いました。

私、日本人にとってはなぜ時間通りに物事が進まないのか、なぜこうすれば効率はあがるのにそうしないのか、日々疑問に思うことはたくさんあります。「こうすればいいのに」だらけです。でも彼らにとって、それがほんとに望んでいることなのか、それはわかりません。

何か月も時がたち、ああ、彼らにとってはこれがいいのかとその理由に気づくこともあります。彼らは、水道・電気が身近になく、水くみを毎日しているからといって、日々水のありがたみに感謝しているわけでも、虫や動物が身近にいるからと言ってみんなが虫や動物が平気なわけではないし、農業が得意なわけでもないし、毎日洗濯物を手洗いしているからと言って洗濯機を知らないわけでもない。
日本では、よく水やごはんが満足に食べられない人もいるんだから、粗末にしない!とよく言われます。命の授業なんかで、鶏を育てて食べる授業が行われます。その意図は、貧しい人のことを想像すれば大切さがわかる、愛情こめて育てれば命の大切さがわかる、ということだと思います。それを否定するつもりはありません。私もここにくるまではそう思っていました。でも、なんかちょっと違うような気もすると思えてきたのです。

私はあるとき、雨水を溜めているタンクで水が流しっぱなしになってるところを発見しました。私は正直驚きました。水は一滴でも無駄にできないものだと思っていたからです。私は生活し始めて、水くみに行くのが大変で、だから水をかなり節水しなければという意識でいました。だから、水がジャージャーと流れ出ていくのを見て慌てて止めました。そのタンクの水がなくなると、遠くまで水を汲みに行かないといけないのですから。なるべく水を使わないで掃除しよう、食器も洗おうと思っていました。でも、ウガンダの人々はきれい好きで家の掃除は水をつかって雑巾がけ、お皿もきれいに洗い、洗濯ものは靴も鞄まで洗います。私が一番節水にこだわっているのではとすら思います(笑)彼らにとって、水くみに行くのは当然なのです。私は日本で、水道からジャージャー止まることなく流れるその生活を体験しているから、節水という意識が生まれたのではないかと思いました。

これはわたしの性格なのかよくわかりませんが、今いつも見かける鶏(名前も付けている)をさばいて食べるとなっても、喜んで食べる気がします。ここでは鶏肉は非常に高価です。めったに食べることができません。2か月、3か月に1度食べることができたらいい方です。現地の人はもっと食べないのではないかと思います。私は鶏肉がすきなこともあってか、安い鶏肉ばかりスーパーでよく購入していました。でも今は手に入れることが非常に困難です。普段簡単に手に入るもので、だからそれを雛から育て、生きているものを食べるということを実感するから、かわいそうで食べることができないと思うのかもしれないと思いました。肉は生きていたもの、それはここでは至極当然のことなのかもしれません。生きている状態からさばいて、彼らはそれを食べ、生きているのですから。スーパーでパックされている肉しかみないという状況はありえないのです。

いわゆる一般的に途上国、第3世界で生きているとされている人々は、かわいそうでも、貧しくて大変で、苦しい生活を送っているから、助けてあげなければいけない、という存在ではないと思います。もちろん、1日1食食べることすら危うい、命の危険に瀕している人、今この瞬間に銃口を向けられている人、他国からの攻撃に怯えている人、そのような人もいます。きっと今すぐ助けが欲しい人そんな人もいます。でも、ただ途上国の人だから、教育を受けたことがないから、水道や電気がないから、だから=助けてあげなければいけない人ではないと思います。彼らは、彼らなりの理由のもとで生きているし、彼らの幸せを日々感じて求めて生きていると思います。
私は、そんな人々と出会い、関係を築いていく中で、私も助けられ、私もできることがあれば助ける、彼らが決して途上国の人だから、ウガンダの人だからではなく、彼らが“彼ら”だから助ける、そういう風にこれからも生きていきたいと思います。

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