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煩悩即菩提について

おはようございます、けさも早起きです。なんというかな、たまには仏教の話とおもいつつ、でも、まあ、これはわたしの最近のきづきですが「思想の切っ先はかならずや外れん」思想・あるいは思索ってやつは煎じ詰めて、たとえば論理的にみがきとかかけると、余計外れる。外れるというか、まあ、それはひとつの幻なんだよね。で、煩悩即菩提の話になると、ね、こう、至らないのよ、けっきょくね煩悩って奴は。

でもね、その、煩悩のなかに居ながら、じいっとしていてね、こう、それこそ私がいう、センタリングってやつだけど、煩悩でこう乱れてみだれて、でも、そこから抜け出そうとか抜け出たいとか思わない。そのうちにこう、不純物が沈殿して、きれいな上澄みがのこるみたいにね、そうやって析出されてくるのが、菩提心かもしれぬ。

これってたとえば儒教にいう、中庸とかね、中正につうじるなあって思うんです。変ですかね、或いは無為自然とかね、煩悩は煩悩のまま、でも、そこから外に出ない。これすなわち、大道(だいどう)のうえに居るってこと、なんだよね。まあ、この、煩悩のなかにいながらにして、でも、じいっとそのままでいること。で、煩悩がわるいとか、菩提心がよいとか、そういうの、いまの自分にはあまりない。煩悩のうちに、じいっとして、うごかないでいてみること、すこしでもこれが出来るというのは、こう、大変なことじゃないか。

今日の一冊を

ふと、いや、これから読む本かと。

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