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豆腐に火が通るように

おはようございます、けさも早起きです。きのうは風雨がはげしかったですね。春の嵐、こういうの花風っていうんでしたっけ、わすれました。もう、さいきん、なにもかもわすれますね。はい、ひとの話というか、打ち明け話をされても、こう、一晩ねむると、忘れます。でも、そのひとを前にすると、じわっと、ああこんなことだったなと思い出す。ふしぎです、人体というか、脳?のふしぎ。でも、仕事のこととかね、あまりそれだと、もう、居なくていいよってことになりますから。こわいね。

わたしはイメージで、豆腐に火を通すように、というのですが、こう、湯豆腐ね、ゆっくりあたためて、しっかり芯に火がとおると、旨いよね。しっかりでも、あたためすぎると、こんどは豆腐に「すが入る」この加減がむつかしい。人間のからだもこころも、まわりの人間関係もなにも、ほどよく加熱して、おいしいところをいただくためにね。恋愛とかもそうで、出会いもゆっくりなら、別れもスローに、次第次第に熱をおさめていくというか。そういうのが、理想よね。と、おじさんはおもう。

まあ、そういいながら、わたし湯豆腐、レンチンでつくったりするからなあ。まあ、ええんですが、でも、火がとおった豆腐って、なんでこんなにうまいんだろうね。それこそ、十代二十代のころはわからん旨さだったな。こうやって、ひとは年をとっていくのだな、と。

今日の一冊

まあ、ある種、たべるという行為自体、哲学的でもありますなあ。

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