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過ぎたるは、ということ

おはようございます、今朝も早起きです。こつこつと、きょうも訳の分からぬ話をして参ります。ここのところ、禅のはなしを読んでいて、こう、冬も冬の寒さをあじわうべし、なんてね、すこしエアコンやすませよう、とかしてたら、足がつった!痛い。ってんで、まあ、なにごとも慣れぬのに、やり過ぎは禁物ですね。慌てて、上着をもう一枚着込んで、あたたかくして、まあ、適度にエアコンも使い。

過ぎたるはなお、及ばざるがごとし、って諺、でもね、如しってところがポイントで。やはり過ぎたる、くらいにやることも人間ね、あるでしょう。止むを得ずして、とか。それでこう、痛い目をすこし見て、それで「工夫」するようになる。この「工夫参究」というのが、要ですね。わたしのこう、二兎を追うこと、とか、書いていますが、あと、センタリングとかね。どれも、過ぎたるに対する対策というかね、そういうのもあります。どっちつかず、こう、ちょっともやっとしている、あまりもやっとすると、今度はこれも体を害しますから、適度に。

さて、きょうも一冊本を紹介します

まあ、毀誉褒貶いろいろとあるかもしれませんが、禅のはなしをこれだけ面白く、迫力をもって語る方も、いいなと。

澤木老師などは、こう、体力があられたから、あれだけの修業をものともせずされたのか、どうか。私はまあ、仏にも帰依すれば、八百万の神さんにも帰依し、宇宙にも帰依し、まあ、それでいて、特定のなにかというのにも絞り切れず、まあ舌先何寸でもの言うか、なんですが、わたしにおける「信」というものは、この、どちらにもつかないということ、過ぎたるをしない、ということ、あくまでまあ「道(答え)に沿う」という、これが私の、分かりにくいですが「信」なんじゃないかなって思います。煮え切らないこと、そのまま即、信ということでしょう。

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