観音/人間関係についての一考
※画像は 葛飾北斎/メトロポリタン美術館 様より拝借致しました。ありがとうございます。
さて、のんびり過していたら、いろいろと展開を迎えています。むつかしい。飴と鞭というか、そういう日々。飴はもっぱら、私が私自身に与えているのかも知れず。
観音さまというものについて。「音を観ずる」って書きますよね。この「音」ってなんだというと、一切衆生ともいえるし、おのれの「心の声」ともとれる。で、その一切衆生ないし心の声に聴き入ってしまうと、こらあ、しんどいですね。なぜかというと、まあ、視野が狭まるから。そうすると、俺かおまえか、という、ジャイアン的発想に人間って、なる。
すなわちラカンでいう、想像界ですね、食うか食われるか、という関係に相手も自分も落とし込んでしまう。それは「聴いている」から。傾聴の時代なんていいますが、それもどうか、私はあまりおすすめしません、傾聴。それよりもその、心の声を観ずる。それはもっと広いところ、広がって見るということ。その、苦しいだのしんどいだの、お前が嫌いだ、だの、憎むだの恋するだの。
それらは、ある意味では一切衆生の声なんですな、まあ、これは瞑想とかの体験にも依りますが。
で、われわれ衆生が「観音様」だという、たとえば盤珪禅師とかの話は、音を観じているから。ああ、ピーチクパーチクであると。それ自体無論、意味もあろう、なんもあろう。でも、本質はピーチクパーチクです。
そして、イキナリ人間関係の一考になりますが、私は私にうつっている他者というもの、これを「他己(たこ)」と呼んでいます。完全な「他者」などは全く理解不能なものです。己も。結局、己<自己/他己>他者という、いわばこの括弧内のところしか、ひとは見えない。発している「己(おのれ)」も分からんし「他者」もわからない。ただこの「自己/他己」の傾斜配分から、「どうやら私、らしい」「どうやらあの人、らしい」ものが析出されてくる。
だから「聴いて、ハマる」とかえって危険が大きいのが、人間の世界です。すぐに想像界にハマるから。で、観ずる、それは象徴界的な働きですけどね、まあ、そっちは置いといて。そういうものだ、だから音を聴かずして観よう、もう少し広い視点から見ていこう、という。
盤珪禅師といえば、この一冊ですね。これがあれば足りる。
で、ラカンはどっか、大づかみにしてわたしはみています。分かってなどいませんよ、っていうことで。私の好きなラカン解説本を一冊。
ラカン自身の「語り」に踏み入りたい、って人は、思い切ってこちらから。
分け入りてひとのこころの腑分けなどせずなりてのち 人は解らず
今井聡
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