見出し画像

文章を学ぶことは、自分の生き方を見直すことだった話

家族に学生がいるので、改めて小論文の書き方を調べてみました。

『試験に出る小論文「10大テーマ」の受かる書き方』

たまたま手に取ったのが、この本。


昔はぐるぐる文章が回っていく《天声人語方式》で書いたりもしてたんですが。
論文の形式と言えば起承転結。疑問・論証・結論ですよね。
上記の本でも冒頭でその型の提示があり、それは当たり前の事として、ページの多くを《受験に出る重要テーマの解説》にあてています。
解説後、お手本的な小論文のページがあって。
こんなふうに書くんだよ、という事なんでしょうけど。

そのお手本的な小論文が。
数行目を通すのがだるいくらい……つまらない。
こんなのを数十数百と読ませられる先生は、苦痛だろうなぁ。

いえ、小論文のテストとしては、正解なんでしょうよ。
さすがプロ、いかにも学生の書きそうな(どんな書きそう? よ)、まとまった小論文になってるし。
ただ、入試の正解かどうかと、読み物として面白いかどうかは違うんだよなぁ。
小論文の採点って、難しい……。

それとは別に、ちょっと上記でも触れた《テーマ解説》の部分でも、もやもやするところがあって。
例えば《ボランティア活動》について。
この先生は、学生のボランティアを義務付けすべきだという意見の人で、それはまあそうなんでしょうけど。
大学生は小中高校に行ってボランティアで勉強を教えるべきだ……と読めるんですけど、それはちょっと厳しくないですかね? と。

ボランティアで勉強教える時間があれば、家庭教師や塾講師のアルバイトをして、学費や生活費の足しにしたい学生、絶対いると思うんですけどね。
生活に余裕がないと、ボランティアできないでしょ?
だったらこの先生も、ボランティアで学生に小論文の書き方を教えるんですか? 
小論文の塾を経営されてるみたいなので、生活のためにそれはできないですよね? 行政からの補助とかがないと。
なんか、参考書を利用して学生を圧迫してるみたいで、もやもやしてしまったんですよ。

『ぼくらの文章教室』

ちょっと予想外にもやもやが増殖してしまいましたけど、書き方ノウハウ本である程度「なんだかなあ」になるのが薄々わかっていたので、共に次の本にも手を伸ばしていました。
高橋源一郎さんの『ぼくらの文章教室』。

この本は作家による《名文とは何か》という命題に対する模索を表したような本ですので、受験小論文攻略法とは違います。
でも、受験小論文がつまらないと感じた、その感覚に対する答えを考えるには、十分な本でした。

要するに。
読者の心を打つ文章というのは、書き手が自らの人生を見つめた先の文章だったり。
特別な経験をした《選ばれた人》ではない、ごく普通の人間としての目線で、世界に真摯に向き合った結果の語りであったり。
一度だけの使用に耐えうる言葉こそが名文である、と。

見栄えだけ良くして、手垢のついたような文章を並べても駄目だし。
自分の能力や実績のプレゼンをしても、それは他人様から見たら「どうでもいいこと」なんですね。

なんだ。
良い文章を書きたければ、自分の生き方をあらためていくという方向になるんじゃないか。

手抜きをせず。
「私が、私が」と前に出ず。
己の醜さと向き合い。
他者を全肯定し。
世の中に耳をすます。
読みにくい本も、たくさん読む。
そして、書きたいと思ったことをどんどん捨てて、研ぎ澄ます。

この本の中でも、名文がたくさん取り上げられています。
その中には、国語科として考えたら✕がつくような、文法的におかしい文章もあります。

日本語としては、おかしい。
それでも、胸を打つ。
心に残る。
面白い。

書くべきはそういう文章、と思うのは、著者が作家である故かもしれませんが。
しかし、小論文やエッセイであっても、体裁だけのものより、体裁プラス文章は名文の方が、絶対読んでて面白いでしょうしね。
やっぱり、見よう見まねの小論文は、試験会場の外ではお目にかかりたくないんですよ、採点のバイトじゃないんで。

まとめ

なので、小論文の体裁を頭に叩き込む必要はあるものの、書く中身については、日頃から本をたくさん読んだり、他者と話をしたり、内省をしたりして、視野を広く、教養を深く、正直に生きて、豊かな人間になるべし。

という、名文に近道なしという結論に至ったんですが、どうですかね。

とりあえず、この本の中で名文の書き手として取り上げられることの多かった作家が、小島信夫さんと鶴見俊輔さんですので、このお二方の著作には当たる必要があるなと思いました。

てか、先日、鶴見俊輔さんの『流れに抗して』を読んでました。

はじめて読んだ鶴見俊輔本だったので、なんかもう圧倒されまくってて、悔しくて、「怖いおじいさん」みたいに思ってました、実は。(偏屈おやじとか書いてるし)
でも、その圧倒された感じが、文章の力だったんだろうなと、今思うとそうなんだろうな、と。
同じような内容でも、多分、書き手が違うと、心への響き方が全然違う。
そういうことなんですね。

我々は「読みやすく書く」とか「わかりやすく書く」とかいった体裁にばかりこだわり、根本である「言葉とは」「文章とは」といった部分を軽視している気がします。
伝えることが大事、と言いつつ、我々自身が日本語の本当の力を理解していない。少なくとも私は失念していました。

日本語でものごとを考えているくせに、その言葉を粗略に扱っていいはずがありません。
先の見えない今だからこそ、言葉と文章に対して、真摯に向き合いたいと思います。

ありがとうございました。

よろしければサポートをお願いします。いただきましたサポートは、私と二人の家族の活動費用にあてさせていただきます。