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多和田葉子さんの『かかとをなくして/三人関係/文字移植』を再読・誤読する。

多和田葉子さんの『かかとをなくして/三人関係/文字移植』を20年ぶりくらいに再読しました。
あ、いえ、20年前に読んだのは、単行本の方なので『三人関係』『アルファベットの傷口』ですけど。

30年以上前の、多和田葉子さんの初期作品集なので、あらためて読むと、80年代感がすごくします。
現代なら、こう書かれなかっただろうなと思ってしまう言葉があるし、とにかく登場人物が80年代。
永く生きるって、嗚呼こういう現実に遭遇することなんだなあと、しみじみ思ってしまいますね。現代の話だと思って読んでた作品が、古典みたいになっていく……。

「かかとをなくして」「三人関係」と「文字移植」は、こうして一冊にまとめてあらためて読むと、孤独を描いた作品だと思いました。

多和田葉子さんの作品を語る上で、作品に散りばめられた日本語とドイツ語の越境性を外すことはできない、とわかっているんですけど。
NHKラジオ講座のまいにちドイツ語を2ヶ月で挫折してる上、文学素人なので、ちょっとそこに入っていく技量も度胸もなくて、申し訳ございません。
なので、素人は素人なりの読み方をするしかないと開き直っております。
誤読だろうし、後から頭抱えることになるとは思いますが。

なので、この本のキーワードは「孤独」だなと。

「かかとをなくして」

この作品は多和田さんの日本語でのデビュー作で、初期タイトルは「偽装結婚」。当時、偽装結婚って社会問題化してた気がします。

知らない街の駅に降り立った主人公が、つんのめりながら夫となる男の家に行きつき、習慣の違う街で戸惑いながら暮らす。ただし、夫は主人公に姿を見せない。

最初に読んだとき、なんかもう全然わからなくて、とにかく追い詰められるような怖い話だと思ったんですね。
で、20年ぶりに再読すると、コミュニケーション不全による孤独の話かなという気がしました。

知らない街に来て、コミュニケーションを取るのが難しいのは、すごくわかります。街全体が自分を拒絶してるような気になる。
その上、夫となる男が自分の前に姿を現さない。これは怖い。
偽装結婚だと思いながら読むから、偽装してまで婚姻を望む男にメリットは何があるのか、金か?(でも男が金を主人公に与えてる)、身体でもなく労働力でもない、そしたら殺害目的? とか考えてしまうのに、主人公はそんなことを考えもせず。
いや~、無防備すぎるでしょ。なんで大丈夫って思っちゃうかな。

その上、主人公は特に周囲の顔色を窺って自己を押しとどめることもなく、割と自分に素直に行動してる。80年代って無防備だなあ。

今読むと、主人公のあれこれがはらはらモノで、つまり現代はそれだけ周囲に気をつかわなきゃいけないようになってるってことなんですけど。
80年代はそういう奔放さがあって、ゆえに孤独を感じることがあったとしても、Windows95前の時代だから「自業自得」なんて責められない。

逆に、初対面からそんなに丁寧なコミュニケーションを取る社会って、現実にはあり得なくて、たいていみんな好き勝手やって、小さな衝突したりもするし、知らない街でひとりぼっちだったとしても、まあそんなもんだよね最初は、で、ふわふわやっていく。
そんな感じを描いているのが、この小説かなあと思います。

「三人関係」

「三人関係」の登場人物も、ことごとく80年代の人~という感じがしますが、当たり前か。
三角関係ではない三人関係の、他人の物語を消費する女が主人公のお話ですね。

主人公は恋人とも切れ、たいしたことのない会社でコピー取りをやっているOL。そこの学生バイトで入ってきた綾子が、主人公の好きな作家の夫の教え子で、作家とも知り合いになり、きらきらした世界に近づいていく。

主人公は綾子から作家の家に行った時の話を聞き、物語を空想する。
物語を持っているのはあくまで綾子で、主人公にはない。
自分で物語を持たない主人公は、コピーを取るしかなく、現実の見えない壁に阻まれている。

日本人のゴシップ好きと、ゴシップを追いかけることの虚しさみたいなのを、描いているのかなと思いました。
他人の物語を消費してる間は、自分自身は傷つかないからラクでいい。でも、ラクだからこそ、何も残らない。

この消費するだけの主人公は、何者でもない凡百の我々なんですね。
何者でもなく、何かに人生を賭けたりもしてないからこそ、透明な壁の中から他人の人生を消費する。
内にこもるから外の世界を消費するのか、外の世界を消費するから安全な内にこもるのか。

この主人公が30年後どうしているのか、ちょっと想像してみたくなりました。

「文字移植」

「文字移植」は、最初に読んだとき、主人公の翻訳部分が全然わからなくて、ものすごく胸苦しい作品だなと思った記憶があります。
でも20年たって読むと、ああこの翻訳部分ってそういうことかと、ちょっと腑に落ちたりして。年を取るってそういうことなんですかね。

短編小説を翻訳しに南の島に来た翻訳家が、追い立てられるように翻訳していく話。と書いてしまうと、ちょっと違う気がするんですが、主人公はだいたい精神的に追い詰められています。
でも「翻訳はひとりでするもの」と言ってる主人公なので、なんだろう、自分から孤独の沼に入っていってる人なんですね。

母語である日本語に訳している、とあることから、主人公は日本人だと思われますが、ヨーロッパ在住なためか、割と思っていることをがんがん口に出して言う主人公です。だから、自分から傷つきに行ってるように見えてしまう。
これは「Noと言えない日本」と言われてた時代? を裏返ししてる気がしなくもないんですけど、それを痛々しそうと見えてしまうということは、現代日本って80年代より更に自己主張NGな社会になってる? とも思えなくもない。
否、現代もみんなそれぞれ自己主張してるけど、でも他人に攻撃されないように防護ネットを張り巡らしてる。

「文字移植」の主人公は、防護ネットも張らずに銃撃してる感じで、結果ものすごく傷ついてるし、苦しそうだし、でもどうしようもなさそうで、やっぱり読んでて辛い。
そしてこの辛さって、対人関係能力に劣る人間共通のもんかなと、我が身を振り返るわけですよ。

まとめ

多和田葉子さんの初期作品、この三作の共通テーマが孤独じゃないかな? と思ったのは、どの主人公も生きるの下手そう、人間関係辛そう、と思ったからです。
で多分、そういう作品に出会ったから、私は多和田葉子さんの作品に惹かれたんですね。
対人能力劣る人間にとって、明るく社交的な主人公の話って、ちょっとしんどかったりもするので、時期によっては。
世界断絶、みたいな。

20年ぶりに読み返すという行為は、作者との対話だけでなく、20年前の自分との対話でもあるんですね。というのを、今回身に沁みました。

人生に迷ったとき、そういう読書をしてみるのもいいかもしれませんね。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。


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