『歴史戦と思想戦』を再読して考えたこと。
山崎雅弘さんの『歴史戦と思想戦——歴史問題の読み解き方』を再読しました。
歴史戦とは
巷で取り沙汰されている歴史戦。
そもそも歴史戦って何? と、私も最初、思いました。
この本によると、
だそうです。
歴史の政治利用といえば、天武天皇ですね。
いきなり話が1300年前に飛びますが、政治目的があって、天皇家を中心とした文学的歴史書・古事記や日本書紀が編纂させられました。
否、前近代における官製史書には、政治的思惑が大抵絡みます。権力者の自己正当化にための手段として、歴史が使われてきた……という歴史(ややこしい)は否定できません。
なので、最初に聞いたとき「千年前の発想かよ」と思いました。
歴史って
歴史書に権力者の思惑が介在するなら、そこから操作された部分をはぎ取り、事実を明らかにしていくのが、近現代における歴史の取り扱い方だと思います。
この本の著者の山崎雅弘氏も、その立場であの戦争と戦後の日本を見ておられます。
というか、もはや客観的事実を追究する以外の歴史は、フィクションでしょう。歴史小説とか、大河ドラマとか。
日本人にとって「歴史は暗記モノ」のイメージがあるせいか、教科書や大河ドラマのように「通しで書かれた歴史書」があって、それを読むことが学びだと思われていませんかね?
いやいやむしろ、そんなふうに「書かれたもの」があるとしたら、「それは事実に基づいているのか」一々検証するのが歴史学では?
歴史資料になるのは、日常的な行政文書だったり議事録だったり、個人の日記だったり、そういうものです。
それらをまとめて編集するならば、事実のみを追究するものでなければならないし、その編集の仕方に対する批判も、甘んじて受けなければならない。
あらためて言うまでもなく、歴史ってそういうものですよね。
国が決めた物語を、ありがたく頂戴する……それじゃ、全体主義です。
国に都合が良かろうが悪かろうが、歴史は事実の追究であるべきだし、歴史を反省することは単に謝罪することではなく、失敗に至るメカニズムを解明して、同じ過ちを回避するにはどうすべきか、それを議論することだと思います。
昔と今の「日本」
この本では、先の大戦中の、政府による思想戦というのが取り上げられていますが、それが歴史戦のやり方にそっくりだと指摘されています。
「日本は間違っていない!」という宣伝活動ですね。
でも、それが効果的だとするなら、近代民主主義ではなく権威主義を志向していることに気づいてほしいものです。
山崎氏も、大日本帝国と戦後の日本国は別の国だという立ち位置で、だから大日本帝国のやり方を批判しても自虐ではないと仰っています。
大日本帝国は失敗したから滅んだ。独立国としての地位も奪われた。だから、二度とそんなことにならないよう、反省すべきである。本当にそうです。
大きな括りの中の、日本列島の歴史の中では、大日本帝国も日本国も「日本」ですけど、小さな括りとしては別の国。
だから、大日本帝国の間違いを認めることは恥ではないし、むしろ間違いを認めて改めることの方が国益にかなう。
なのに、それができない人々が、歴史戦をやろうとしている。
祖先のプライドなど、背負わなくていいのに。
バイデン大統領も戦時中の日系人の強制収容を反省し、声明を出されました。
「アメリカ合衆国は悪くない」「あの当時は仕方なかった」と言われるより、よほど清々しいです。
今は100年前
正直言って、こういう本を読むようになるとは、昭和の時代には思いもしませんでした。平和な日本に生まれてよかったと思っていたので。
でも現代の空気は、90年から100年前くらいと同じなんですよね。
それはこの本を読んでも感じるし、半藤一利氏の『昭和史』やナチ研究の本を読んでも感じます。
それの何がまずいって、戦争になりそうだからまずい以上に、破滅への道をなぞっているから、だからまずい。
なぜ負けたのか。その反省のないところに、繁栄はありえません。
上司が同じミスを繰り返していたら「学べよ」と言いたくなるのと同じ。
確かに、過去の日本を批判されるのは、気持ちのいいものじゃありません。
でも、言い訳するのは格好が悪い。
反省すべきところは反省し、主張すべきところは主張する。
それが近代民主主義国家であり、先進国です。
重要なのは過去の権威ではなく、人権意識のある国として行動する意思があることを示すこと。
若い方々には、ぜひ過去の愚行から学んで欲しいと思います。
ありがとうございました。
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