【読書記録】『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』を読んだ話
2023年に話題となった『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』を読みました。
この本では、オノマトペとは何か、という話から始まって、オノマトペは言語なのか、そも言葉はどのように生まれ進化してきたのか、という命題を、実験を踏まえながら論じられています。
言語の離散性、経済性、恣意性……といった用語に、読みながらちょっと苦戦しましたが(慌ててノートにメモしましたよ)、非常に興味深く、面白く、言語習得のみならず、学習一般にも応用できそうな内容で、2024年新書大賞を取るよね~と思わせる本でした。
ことばの発生と進化
子育てをしたことのある人なら、子どもが喃語→オノマトペ→単語→二単語文→文章……と言葉を覚えていくことをご存じかと思います。
でも、そもそも人類はどうやって言葉を使うようになったのか、それが幼児と同じような過程を経てきたとは、ちょっと素人には思いつきませんでした。(でも言われてみればそうかもしれない)
オノマトペは感覚イメージを落とし込んでいて、身体的感覚と密着しているのでわかりやすい反面、見た目、鳴き声、触り心地など、どの要素を取り入れるかで各々違いが発生する。と同時に、似た音表現が増えていくとわかりにくくなる。
そこで、音と意味の関係に必然性のない「言葉」が増え、抽象的概念としての言語が増え、かつ世代を経ることで、言語が体系化していくそうです。
この本の中での実験の一つに、手話の存在しなかった社会で手話が生まれて進化していく過程を記録したものがあるんですが。
いや、本当に、単語の世界から体系的言語の世界へ、どんどん進化していくんですよ。すごい。
耳の不自由な方の世界は、聞こえる私には想像もつかないのですが(無音ってだけじゃないよね、だって無音って思ったときに頭の中で「無音」って声を想像して言ってるし)。
言葉の存在を知って、使ってみて、複雑な体系を構築していくのに、世代を経るとはいえ、短期間で完了してしまう。人間ってすごい。
物に名前があることを知るすごさ
この本を読んであらためて考えたのが、物に名前があることを知るって、めちゃくちゃ重要なんだということです。
ヘレン・ケラーの有名な「Water」も、手にかかる冷たいもののことを「Water」と知った衝撃というより、手にかかる冷たいものに名前がある、それが「Water」だ! ということだったんですね。(というか、この段階では「手」も意識してないし「冷たいもの」も意識してなかったと思われる)
サリバン先生が何やら書いてくる指文字も、物に名前があると気づく前は、単なる刺激としか認識していなかったというのですから、そういうことか! と。
赤ちゃんは、オノマトペから「物には名前がある」「単語には意味がある」という言語の大局観を学ぶらしいんですが、そんな革命的なことを生後一年半とか二年とかの間に学ぶって、すごいな幼児さんは。
我々が当たり前だと思っていることも、実はすごいことで、我々がイノベーションだと思っていることも、言語の獲得に比べればたいしたことじゃない。そんなことを、ちょっと思ってしまったのでした。
成長に失敗は不可避
言語の進化の過程について、ブートストラッピング・サイクルというのを挙げられています。
既存の知識→推論→知識の更新→既存の知識ver.2→より洗練された推論……というサイクルですね。
このサイクルでいくと、知識量はどんどん増えるし、推論のレベルも上がっていくし、サイクルを回せば回すほど新しい気づきが増えたり、概念の体系を進化させられたりして、とにかくどんどん優秀になっていく、ということでしょうか。
ただ、失敗を恐れて推論していかなければ、このサイクルは回せない。
我々は、推論で間違えることを非情に嫌がります。突っ込まれたり叩かれたりするのが、怖くて。
でも、怖いからって絶対安全な正解だけをたどろうとしたら、外国語学習のみならず、社会も科学も発展しないということなんですね。そっちの方が怖い。
だから誰かの推論に対して、ネット上で鬼の首を取ったかのように「これは違う」と叩いたり、集中砲火を浴びせるのは、モノにもよりますけど、一周回って日本社会全体の首を絞めることになるんだなと、そこは肝に銘じようと思いました。(ただ、誰かの排除や誰かからの搾取を前提とした推論は、あかんよ)
人類は、世界中に居住地を広げたので、まあ推論を繰り返していかないことには、未知の環境に適応できなかったようですね。そりゃそうか。アフリカとは気候の違うユーラシア、南北アメリカ、オセアニア。これをやってみよう、失敗したから次はこうしてみよう、この繰り返しで、生き延びてきた。
逆に、最初から正解がわかっていることしかしなかったら、人類はアフリカから出られなかったわけで、つまりチンパンジーと同じ。
我々ひとりひとりは弱いので、だから社会が必要なわけで。誰かの失敗を自業自得と切り捨てるのではなく、たまたまそっちを推論して試してくれただけの人と寛容を持って、社会全体でまるっと受け止める必要があるよね。
それを考えた2024年七夕の夜なのでした。
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