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【読書記録】中村真一郎さんの『源氏物語の世界』を読んで考えたこと

今年は『源氏物語』と日本古代史を深める年! というのを、個人的にやっています。
なので、まだまだ関連本を読んでます。
今回は、中村真一郎さんの『源氏物語の世界』です。


まず、この本は1968年の本で、著者は1918年生まれ。1997年に亡くなられています。
私は不勉強で、中村真一郎さんを存じ上げなかったのですが、小説家で文芸評論家で詩人というすごい方だったんですね。
今年のNHK大河が『光る君へ』じゃなかったら、書店にこの本が平積みされてなかったら、手に取ることはなかったかもしれないと思うと、ご縁って本当に不思議。

で。

『源氏物語』の名声の背景

この本を読んでいて、最も印象に残ったのか、以下のくだり。

『源氏物語』は世界最古ではなく、歴史的発展のおくれていた日本が遅くまでとどまっていた「古代」世界の終り頃に生まれたので、ギリシャ・ローマや中国の古代の盛りに十世紀も遅れて、それらの国々が早く生んだ文学的傑作の系列の、いわば最後尾を飾るものとして花咲いた作品である。
だから『源氏物語』は「世界における古代最後の文学」なのである。

中村真一郎『源氏物語の世界』

なんかね。「『源氏物語』は世界最古の物語〜」ってうっとりしていた自分が、恥ずかしくなりました。
そうですよね。冷静になって考えれば、ギリシャ文学や中国文学の方がはるかに最古ですよね。紀元前から文学がある国々と、そもそも文字を持たなかった国とでは、勝負にならない。

その上で。

『源氏物語』は千年前に書かれてから、徐々に世界的名声を拡げていったのではない。日本の地方文化の一産物として、千年の間、生き続けていた後で、突然世界文学のなかに「新しい古典」として登場し、一挙に不動の地位を占めたわけである。

中村真一郎『源氏物語の世界』

西洋の文学界における19世紀後半の自然文学主義の流行の後、新しい反自然主義的な流れが興ろうとしていた時の1920年代、イギリスで、プルーストの『失われる時を求めて』、ジョイスの『ユリシーズ』と共に紹介されたのが『源氏物語』、ということなんですね。
たまたまイギリス人に発見されたから、火が付いた。名作の呼び声を貰うことができた。またまた海外評価に流される日本人、かよ。

自然主義は日本でも明治期に興って、形式美にこだわる徳川時代からの脱却みたいな感じ……というのは、なんとなく聞きかじっているんですが。
反自然主義と王朝文化が結び付くの? 
『源氏物語』って反自然主義なの? 
……よくわからない。

ただ、我々が誇りに思う王朝文学の栄光の裏には、誰かの思惑……と言っては語弊があるかもしれないけれど、誰かが意を持って動いたという事実があり、1000年の間に自然と何もせずとも名声が集まってきたわけではない、ということは、肝に銘じないといけませんね。そういう方面では、日本人ってわりと怠惰なので。良いものはおのずと評価される……的な感覚がありませんかね。

中村真一郎氏の女性観

この本では、『源氏物語』の登場人物のほか、王朝文学の様々な女性についての、中村真一郎氏の女性観が語られています。
冒頭でもお伝えしましたが、これは1960年代の本で、著者は大正男。丁度NHK連続テレビ小説『虎に翼』の男子学生たちより、ちょっと下の世代でしょうか。だからまあ、女性観が古いと言えます。

かぐや姫を「はなはだ傲慢で、厭味な女、軽蔑すべきかまととの女」と酷評されてるし。
高畑勲氏の映画『かぐや姫の物語』を観た後では、私的にはちょっと出てこない感想ですが、求婚されるうちが華、という価値観だったら、そうなるでしょうな。

なので、女性にとっての恋愛は、男に求められて性交すれば始まる……と解釈されているようなので、その辺は読んでて辛かったです。いや、これ、恋愛じゃなくて虐待やん、DVやん、と思うくだりのなんと多いことよ、王朝文学(特に『とはずがたり』)。
私は『とはずがたり』を読んだことないんですが、後深草院二条の境遇をとても恋多き人生とは思えないし、DV被害者として翻弄された人生としか読めない。養父の愛人になり、その養父が彼女の後見役に決めた男の愛人にされるほか、養父の弟とか、また別の男とか。いやもう虐待でしょ?

反面、清少納言をすごく評価されていて、「完全に独立した精神の女性」「自由で対等な男女交際を可能とするだけの知的教養」のある人と評されています。いや、まあ、知的教養のない女性は対等な男女交際ができないのかよ、そこツッコミどころですよ? なんですけどね。あれ? 知的教養のない男性も、対等な男女交際できないってこと?

文学の立場と目的

中村真一郎氏は歴史学ではなく文学方面の方なので、読んでいると文学の立場や目的についても書かれています。

すなわち文学的立場を、人生の醜さの中にこそ真実があるとし、人の心を動かすには、人間性の真実に触れなければならない、と。

人生の醜さと言えば、先に挙げた『とはずがたり』に出てくる男どものような連中ですが、あの醜さの中に男の真実があるのだとしたら、それはちょっとよくよく考えて自制することを学んだ方が幸せな人生を歩めるよ、だったり、そんな真実を曝け出されて動く心といえば、女性の安全を守る法活用をするしかない、なんですが。

いや、まあ、わかりますよ。『ライ麦畑でつかまえて』などは、まさしくそれですよね。

また文学の目的を、言語的手段によって、読者の日常的経験とは別の、より純粋な観念的世界を作り上げること、とされています。

あ……これはちょっと、私にはうまく嚙み砕けないかもしれません。
噛み砕けないけれど、純文学作品にはそういうものがあるな、というのはうっすらと思い浮かべられます。
文学作品をたくさん読まれている方には、「そうそう!」なんでしょうか。

こういう、自分でもよくわからないけど「こういうことが書かれていた」を文章にするって、そんなの自分で理解してから書けよって、我ながら思うんですけどね。
ただ。たまたまこれを読んでくださった方が、「あ、ひょっとして、私がこのところもやもやしてたアレって、こういうことだった?」とかいうような、まあちょっとしたきっかけを提供できたなら、それに越したことはないじゃん? とも思うし。
自分で一年後とかに読み返したときに、「あ、ここにあるじゃん!」ってなることを期待して、自分のために書いてます。

おわりに

この本は、平安時代(とそれに続く時代)の王朝文学を考える上で、確かに一つの道標になるなと思います。
決して読みにくい本ではありませんが、ライトなビギナーには重いかも……女性観が。

私は歴史が好きなので、なんでも歴史的視点でものごとをとらえてしまう癖があります。なので、この本には、王朝文学の書かれた当時のものの考え方と、大正から昭和中期(オイルショック前)までの考え方が、残されているな、と思ってしまうんですね。
その点を、例えば現代の視点と比較してみるのも、面白い。

なので、昔書かれた本、とひとくくりにしてしまうのではなく、その人がどう考えていたのか(当時の人……的なおおざっぱなくくりではなく、故人として)、読んで考えていくことが、文学と歴史学の接点になっていくのかなあ……と、ちょっと思いました。

以上、ありがとうございました。


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