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【読書記録】九段理江さんの『しをかくうま』を誤読する。

九段理江さんの『しをかくうま』を読みました。

この小説は、とても難しいです。
一度読んで、とても理解できていないと思ったので、続けてもう一回読みました。それでも、理解できたとは言えない……。
わからないことだらけです。
だからといって、つまらないわけではなくて、なんというか、このわからなさが面白い。


あらすじ

物語の主人公は、競馬の実況を仕事とするアナウンサーの男。名前は不明。
小説の中で、人物名や馬名の多くが太文字で表記される中、現在の主人公の名前は明かされない。
なのに、馬名が九文字から十文字に変更されるというニュースに、主人公は心かき乱される。

また、ホモサピエンスがネアンデルタール人と共に地球上にいた時代に、「ヒ」と「ビ」という人類種の違う二人がいて、共に馬に乗ることを習得する。

はるか昔からの、ヒトと馬とのつながり。
イエスキリストが生まれた以後の世界で、ヒトの娯楽のために改良されたサラブレッドがいて、そのサラブレッドとのつながりを、主人公は求める。
ヒトのためにつくられた競馬の世界で、詩を紡ぐ馬。

ヒトの欲望はとどまるところを知らないから、いつしかヒトは二次元の世界につながるようになる。望みのものが瞬時に現れる二次元世界。
だが、主人公は三次元にとどまる。とどまって、馬の詩を書き取ろうとする。

というようなストーリーかと思うんですが。

突きつけられる知性と教養

とにかく、作品のそこかしこにちりばめられた、名だたる人々の名前の数々。
それらが持つ意味の深さ、広大さ、関連性。
これらを理解した上でじゃないと、作品に込められた本意は読み取れないんじゃないかと、そこは痛切に感じました。

しょぼい知識しか持たない身としては、わかったふりをして芝生の端っこで小さくなっているしかない。
成長とは教養を磨くことだよ、とトーマス・マンに笑われますね。

競走馬と宗教とヒト

『しをかくうま』の主人公は宗教二世なので、その辺から一つ解釈ができそうなんですが(競馬はキリスト教社会で生まれてるし、でも馬とヒトとのつながりはイエス以前からだし)、う~ん難しい。
宗教も過去も、影響し続ける。ヒトは神に似せた存在であるヒトの特権に縋り付きたがる。馬に対し、その特権を行使していないか? どんなに宗教から逃げても、人類全体がからめとられている意識は、どうにもならない?

結局、主人公が焦がれる馬が、サラブレッドというところですね。
なぜ日本の在来馬じゃないのか。
競走馬に注目する限り、人類の業や現存する社会の仕組みから逃れられず、どんなにもがいても、既存の枠の中にとどまるしかない。
その中で、なにができるのか、できないのか。
主人公はどう変わっていけるのか。

詩とは言語?

この作品での詩の扱いは、文学でありつつ言語でもある、そういう立ち位置なのかなあ、と思いました。

名前も詩。
競馬の実況も詩。
でも、谷川俊太郎さんも高村光太郎も寺山修司も出てくる。カタカナ表記で、太文字で。

周囲の人たちが「普通」と思っていることに「異常性」を感じても、それを「異常だ」と言えば、言った方が「異常者」になる。
言葉にかかる同調圧力。
と言いつつ、読んでて私も「競走馬の名前が10文字になることに、そんなに危険性ある?」と思ってしまうし、そこにこだわる主人公がもし同僚だったら、「面倒くさい人?」と思ってしまったかもしれない。

そんなときに、聞き取らなきゃいけない馬の言葉って、何だろう?

おわりに

とにかく、ああだこうだと言っても、答えはテクストの中にしかないんですよね。

最近、小説をあまり読んでいないので、作者の九段理江さんが芥川賞作家だとも気づいていませんでした。反省。
この作品で、野間文芸新人賞を受賞されているんですね。

この作品を読んで、文学ってやっぱり面白いじゃん、と思ってしまいました。
面白いけど難しくて、難しいからこそ挑み甲斐がある。
作者と同じ目線で世界を見たいな、と思ってしまうからこそ、もっといろんな本を読みたくなる。

500年くらい人生が欲しい。
でもその間に読みたい本がどんどん増殖していくだろうから、きっとそれでも時間は足りない。
読書って本当に面白いです。

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