見出し画像

多和田葉子さんの『雪の練習生』を2回読んだ話

多和田葉子さんの『雪の練習生』を2回続けて読みました。
2回続けて読んだのは、1度読んだだけだと読み落としが絶対あるなと思ったからですね。
多和田さんの文章は、何度読んでも味わい深くて面白いので、2回目も普通に楽しめるし、2回読んだことで少しは作品が理解できたかなぁ、できてるといいなぁ……(心もとない)

しかしですね。
我が家にある『雪の練習生』は、2011年刊の単行本なんですよ。
12年も何をやってたんでしょうね。
……ハイ、ホッキョクグマの一人称という文体に、なかなかついていけませんでした。何度も途中で挫折しました。
意識が、どうしてもホッキョクグマに入っていけませんでした。

読み終えた今から思うと……なんということはない。
なんで読めなかったんだよおおおおおお~。

そしてこの作品、冬場に読まないと絶対なんか違う! とずっと思いこんでいました。
『雪の練習生』ですから。
まあ真夏に読んだらそれはそれで、ホッキョクグマたちの「暑いよ!」という言葉が、より理解できたかもしれませんが、それは後の祭り。
何度か冬に挑戦しては挫折し、気が付けば12年が過ぎておりました。(もったいない~)

あらすじ

この本は、ホッキョクグマ3代の物語です。
自伝作家の「わたし」、その娘でサーカスの花形ホッキョクグマの「トスカ」、トスカの子で動物園の人気者の「クヌート」の3代。
ホッキョクグマから見た人間社会であったり、動物と人間の垣根があやふやであるが故の不安定さだったり、そういう作品世界が展開しながら、背中に爪を突き立てられるような文章が飛んできたりします。(本当かいな~)

孤独

この作品のキーワードを3つ挙げるとするなら、その第一は孤独だと思います。
「わたし」も「トスカ」も「クヌート」も、人間社会の中で生きるホッキョクグマですが、それゆえに人間との間の壁にぶつかります。
「トスカ」の話は、メインで一人称を紡ぐのがサーカスの猛獣つかい「ウルズラ」ですが、「ウルズラ」もほかの団員や夫である猛獣つかいとも精神的なずれを感じています。

「わたし」はプロパガンダ的自伝を書くことを求められるし、「ウルズラ」は産後鬱になるし戦争の時代に突入するし、「クヌート」は動物園という壁の外に出られない。
みんな、求めるのは自由や幸せ。やりたいことをやりたいという、ただそれだけ。なのに、それが制限される。足元が脅かされる。

自然

二つ目のキーワードは、自然
ホッキョクグマが人間社会の中にいるわけですから、それ自体、自然かどうかと問われたら不自然なんですけど。

自伝作家の「わたし」は、「子供になるということはすでに自然を失うということ。」と考えるし。
ウルズラは「大自然って細胞分裂にしか興味がないの? 人間の心なんてどうでもいいのね。一に繁殖、二に繁殖」と毒づきます。
クヌートが出会ったミヒャエルも「人間は不自然ということをとても嫌っているんだよ」と語ります。

このように、折に触れて自然という言葉が出てくるということは、なんなのか。
日本人の感覚では、自然というのは「抗えないもの」となりますが、だからこそ、何らかの不都合が起こった際に「不自然」を理由に挙げて、人間の無力さの証……みたいにしがちです。
だから「人間は不自然を嫌う」し、その「嫌い」の皺寄せを感じたウルズラは「人間の心は?」と怒りを投げつけるし、そもそも論として「社会性を身に着けたら自然を失う」のでは? という疑問も出る。

そういう人間の中の感覚の自然と相対するように、クヌートは地球温暖化対策大使として注目を集め、動物園の関係者も北極の消失問題を当たり前のようにとらえています。
ただ、だからといって彼らの生活が変わることはなく、このままいけばホッキョクグマの数はどんどん減っていく……という未来は問題視しても、それ以上ではない。それが人間、という残念さ。

言葉

キーワードの3つ目は言葉。
小説なので、当然っちゃ当然なんですが。

「わたし」もトスカもクヌートも、ホッキョクグマなのでホッキョクグマの言葉で考えているのかと思いきや、ロシア語やドイツ語で自伝を書いています。(でも母語はホッキョク語? と不安にもなる)

物語の中でトスカは「人間の魂というのは噂に聞いたほどロマンチックなものではなく、ほとんど言葉でできている。それも、普通に分かる言葉だけでなく、壊れた言葉の破片や言葉になり損なった映像や言葉の影なども多い」と、言葉で考えます。

我々は言葉で考えるからこそ、言葉で表現できない思いや記憶や感動を、魂の中にため込んでいく。
自分でも気づかないようなかけらが、自分の魂をかたちづくっていく。
それらを粗略に扱わないために、自分も他者も大切にするために、言葉といかに向き合うかが大切なのだろう。

そんなことを考えました。

おわりに

『雪の練習生』は、読み終わった後にちょっと寂しくなるような作品でした。
3代のクマたちは、幸せな時間を過ごした(過ごしている)のかなあ……と考え出すと、ちょっと、胸が苦しくなる。

でも、人生ってそんなもんだよね。
辛かったり、苦しかったり、思うようにならなかったり、こんなはずじゃなかったと悔みつつ、思い出や空想に浸ることで心が休まる場合もあるし、いつまでもがむしゃらに未来に向かって全力で努力・向上し続けることなんてできない。老いは必ず来る。薄氷を踏むように、未来が見えなくて沈んでいく日も来る。
でも、どうにもならないのよ。時間だけは。

私が今、この作品を書いたころの多和田葉子さんと同じくらいの年なので、50代が感じる残りの人生の短さへの不安のようなものも、ちょっと感じてしまいました……と思うのは気のせいかな。

10年後くらいにまた、読み返してみたいです。



よろしければサポートをお願いします。いただきましたサポートは、私と二人の家族の活動費用にあてさせていただきます。