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『「暮し」のファシズム』を読み終えて考えたことと異論。

だらだらと読んでいた『「暮し」のファシズム 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』について、書きます。

ちょっと振り返ると、2週間前の3行日記で取り上げてますね。

で、読み終えて。


著者の主張する「暮し」のファシズムとは?

この本を読むと、日中戦争以降に、女性に対する暮らし方の提案が雑誌等を通じてなされていったことが、近衛内閣の翼賛体制に忖度したものであった、と書かれています。

なんでそんなことをしたかって?

第一次世界大戦で、戦争は国家総力戦になる、そうでないと勝てないというのが、世界の常識になったっぽいんですよね。
で、男は経済社会で、いくらでも押さえつけることができる。
しかし女性は、家庭の中に入っているし、天下国家より日々の暮らしに注視するし、なかなか言うことを聞かせられない。

だから、国家が望むような生活スタイルを「新しい暮らし」として刷り込ませ、女性たち自らがすすんで国家の歯車として動くように仕向けたら、政治家たちが支配しやすい、ということですね。

その流れで、質素倹約やら、隣組活動やら、個人主義の否定やらを、おしゃれとか道徳的とかといったはりぼてを着せて、刷り込んでいったということです。

同調圧力の国民性だから、そりゃマスゲームのように、みんなバタバタと染まっていったでしょうな。
だんだん窮屈になっていって、染まらざるを得なかったのもあるだろうし。

なので、個人の自由意志を変えさせるような煽り文句には、十分注意しないと危険だよ、というのがこの本の主旨だろうなと思っています。

気づかなかった文学者・芸術家

そうやって国民を誘導・洗脳していく先兵となったのが、図らずも作家などの文学者や芸術家なんですが。
政治家が芸のない命令口調で言うより、アーティストが「こういうのがいいね」と言った方が、絶対民衆はなびきますもん。

今でこそ、先の大戦中のマスコミのプロパガンダ垂れ流しを批難できますが(現在も割と政府広報に成り下がっているマスコミが増えてますが)、ただ、ちょっと弁護するなら、誰もまさかあそこまで破滅するとは予想してなかっただろうしなあ……というのはあります。

それまで、明治以降の対外戦争で、日本は負け知らずだった。
だから、政府のやることに愚かさはないと、信じて疑わなかった。
異論を唱えれば批難され、投獄される危険性もあった。
結果、政府の暴走に、燃料注入する愚を犯し続けたわけですが、そこを批判しつつも、学ぶべきことが他にある気がするんですね。

つまり、我々が経験していない、想定外の悪夢は現実に起こりうるし、我々はあらゆる悪夢を想定しながら、物事の判断をしていかなければいけない。

文学者や芸術家たちは、流行に乗るように、翼賛体制に乗っかった活動をしていたふしがあります。
場合によっては、大正デモクラシーで起きた風の延長線上に、翼賛体制の波をとらえたふしもあります。怖いですね。

作家たちは戦後、文学と政治の線引きをしたようですけど、でも生きている以上、政治と無関係ではいられないし。
民主主義とは、民衆が主体的に政治について考え行動することですから。

先人たちの躓きから我々は学べるので、同じ轍を踏まぬよう、間違っても「想定外でした」に頷くのではなく。
想定外をどれだけ幅広く想定するか、その上であらゆる想定にどう対策を講じるか、だと思うんですね。

表紙のガスマスクは、著者のショック・ドクトリン?

この本の表紙には、ガスマスクを着けて並ぶ女学生の写真が採用されています。
かなり、異様な光景です。

旧日本軍は確かに毒ガスを研究開発していたし、どうも実戦で使用したらしいし、本土決戦で毒ガスが撒かれたらやばい、というのもわかります。
毒ガスに注目するあまり、焼夷弾を軽んじ、そのために多くの人命が失われたというのが、政府広報の失敗だというのもわかります。

だからといって、政府が科学を重視するのを批判はし難いし、むしろもっと科学を重視した政策をすべきだと思うし。
戦後中国の大躍進政策で、科学的根拠を無視した農業政策をすすめたがゆえに大惨事を招いたので、国家運営に科学は不可欠なんですけど。

あとがきまで読んだときに、著者の意図が少し見えた気がしました。

ああ、この人、コロナ対策のマスクにも懐疑的なんだ。

コロナ禍での政治家の言動や、政府の決定に粛々と従う国民というのには、確かに異様なものがありました。
私の身近にも「どうすればいいか、政府が決めてくれないとわからない」と言う人がいて、危険だなあと思った記憶があります。
まさしく、翼賛体制が求めた女性像ですね。

女学生が全員ガスマスクを着けて並ぶ図には恐怖すら感じますが、ガスマスクがある日常ももちろん怖いですけど、さらに、自分で考え判断しない右ならへの人が多い社会というのが、怖いです。

不織布マスクは、必要だと思えばつければいいし、それは個人個人があらゆる状況を想定して、自分で考えて決めればいいこと。
誰かが言うから……というのは、自分の判断の責任転嫁にすぎません。

おわりに

なんか、いろいろ異論を挟んでしまいました。
著者の主張の根本的な部分、女性雑誌の記事に入り込むプロパガンダに対する警戒は、今も必要だと思います。

むしろ、自己啓発やビジネス書のふりして、若者に自己責任論を押し付ける方が質が悪いかもしれません。
国の責任にしたってしようがない、とよく耳にしますが、それで30年来たから、円の価値が50年前と同等に落ちてるんでは?

ものごとには、これだけやれば全部うまくいく魔法の方法! なんてないので。
自分でがんばる部分と、国家運営として対策しなきゃいけない部分と、両輪がまわってこそ、社会がうまく回るんですよね。

でも権威主義体制だと、権威者はどこまでもラクをして、庶民から搾り取ろうとします。
戦前がそうであり、現代もどんどんそちらの方に流れていっています。
資本主義経済と権威主義体制って、実は親和性が高いんです。
資本家が権威者となって労働者を支配できたら、人件費を抑えて利益に回すことを躊躇なくできるじゃないですか。

だから、あまり考えたくない未来をも想定して、考えて行動しなきゃいけないんだなあ……と自戒も含めて考えたのでした。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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