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山本周五郎、もう一つの横浜山手|新MiUra風土記

この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第24回は、横浜の本牧。作家・山本周五郎のいた山手を訪ねます。

白亜の崖の上で過ごした作家がいた。その仕事場からは海水浴場や別荘、料亭、海苔の養殖をする海が見えた。彼は午前中の執筆をおえると着物に下駄姿で崖と坂で連なる尾根道をたどりちまたに下りて散歩することが日常だった。

隣の台地に棲家がある遊歩人の僕としてはこの作家の足跡をたどってみたい。
 
ここ横浜の本牧ほんもく、根岸はかつての武蔵国久良岐郡くらきぐん、この尾根道は相模国の三浦半島につながる鎌倉文化圏だ。

横浜にはブラフ(絶壁)クリフ(断崖)の名を冠したマンションや店舗が多い。いわゆる横浜山手は同じ台地ながら元町商店街の背後には高級住宅地が並び、「外国人墓地」「港の見える丘公園」「山手西洋館」などモダニズム横浜の観光資源で人を呼ぶ。

本牧間門の崖

崖の上の作家は山本周五郎。彼が闊歩したもうひとつの横浜山手は、その台地の南側にあり別の味わいがあるのだ(*1)。

(*1)山本周五郎(本名:清水三十六さとむ) 明治36年[1903]山梨県北都留郡生まれ。明治43年横浜市西区へ転居。のち東京の質店(山本周五郎商店)で働く。大正15年[1926]文壇デビュー。昭和18年[1943]直木賞を辞退。昭和21年[1946]横浜市本牧へ転居。昭和23年旅館「間門園」を仕事場にし数々の名作を執筆。昭和42年[1967]「間門園」で倒れ他界(享年63歳)。

横浜の本牧といえば名勝「三溪園さんけいえん」が有名だが、別の丘上には「八聖殿はっせいでん」が威風堂々と建っている(*2)。法隆寺夢殿を模したこの館。市の民俗資料館でマニアックな収集展示とイベントでファンも多い。

(*2)横浜市八聖殿郷土資料館。三層楼八角形。昭和8年[1933]竣工。政治家安達謙蔵が精神修養・研鑽のため建立。館内にはキリスト、ソクラテス、孔子、釈迦、聖徳太子、空海、親鸞、日蓮の八聖の像を祀る。本牧、根岸、磯子の地場産業の展示が充実している。

横浜市八聖殿郷土資料館
八聖人は著名な彫刻家の作品でもある。写真左からキリスト(清水多嘉示)、ソクラテス(藤川勇造)、孔子(北村西望)、釈迦(田島亀彦)、聖徳太子(朝倉文夫)、空海(長谷川枡蔵)、親鸞(長谷秀雄)、日蓮(日名子実三)。中央は神鏡。

一昨年この館で横浜の山本周五郎の連続講座があって、その散歩道が発表された。そして昨春、地域まちづくり団体や周五郎の近親者により、顕彰する記念板「山本周五郎 本牧道しるべ」が三溪園へ向かう交差点近くの本牧三之谷交番脇に建立され、周五郎邸から仕事場への道順がわかる。

丘上の「八聖殿」から坂を下り、本牧元町(旧237番地)の自宅跡を探すがわからない。三溪園商店街の鮮魚店「うおきく」(創業大正期)の老店主は周五郎邸や仕事場にも配達していたと言いおしえてくれた。

本牧元町は、多様な顔をもつ本牧エリアのなかで漁村の残り香がする街区。周五郎は装幀家の秋朱之介あきしゅのすけ宅の離れに家族は住み、市電で4駅離れた旅館「間門園」に執筆場兼仮住まいを持った。

「海は足元に迫っているし、房総の山々や、三浦半島の横須賀のほうまで見渡せてとても眺望がいいのです」と自宅から夕食をとどけるのはきん夫人(*3)。

(*3)『夫 山本周五郎』清水きん 文化出版局

いま本牧間門まかどの段丘は奇跡の様に残っていて、旅館「間門園」は廃業し住宅に建て直しされても、崖からの風景は眺められた。ただ周五郎夫妻が見た海浜の風景は一変して、工場萌え!の石油コンビナートがパノラマの様に広がってしまった。ここで代表作品『樅ノ木は残った』『青べか物語』『さぶ』『赤ひげ診療譚』そして『季節のない街』などを書き上げていたのだ。

「間門園」の階段
海水浴場は根岸コンビナートに。

周五郎の三つある散歩道の一つをたどろう。「間門園」を下りた交差点には、旧「根岸園」が残っている。保養地だった根岸海岸屈指の料亭旅館だ。裏の旧道には古来の「おしゃもじ様」信仰の稲荷神社に詣り、ここを管理しているなじみのタカイ理髪店に寄る。

旧「根岸園」
喉の病に効くという稲荷神社おしゃもじさま。

「着物姿のじいさんがこの前を歩いていた、そんな有名人だとは知らなかったけどね(笑)」と子どもの頃、周五郎を実際に観たことがある髙井さんは、60年代本牧アメリカンポップスどっぷりの世代。ここは戦前から旧居留地の外国人の調髪をしてきた店だった。

レトロなタカイ理髪店。

この根岸には新井の名の表札が多くて気になっていた。髙井さんは後北條が油壺で落城させた新井城の落武者がたどり着いた岸辺だったという。根岸が三浦一族滅亡に縁があったことに驚かされた(*4)。

(*4)横浜開港資料館蔵 諸家文書 新井家資料目録。新井家は16世紀、相州三浦郡新井城から武州久良岐郡根岸に移住した一族と記される。

さて海岸路から山手の台地へ急坂を上がる。崖にへばり付いた白滝不動尊は中世からの霊地だが、滝の水量はすっかり減ってしまった。いつも息を切らして上り下りする坂。周五郎は和服に下駄では難儀だったろう。

白滝不動尊の大晦日。

この横浜山手の南側の象徴は旧根岸競馬場だ。そして周囲の道は元町の外国人墓地や関内につながる居留地への回遊道。

横浜でおこった生麦事件でこの台地に居留外国人への配慮から馬による遊歩路が整備されて、幕末に横浜競馬場が開かれた。

いまは根岸森林公園となり、馬場だった芝生と桜のパノラマは絶景だ。とくに競馬場の一等馬見所うまみしょの3塔がランドマークとして屹立しているのが嬉しい(*5)。

旧根岸競馬場は花見の名所。根岸競馬記念公苑エリアには、馬の博物館やポニーセンターがある。
一等馬見所は、一等馬券購入者の観覧席だった。

(*5)旧根岸競馬場 横浜競馬場 慶應 2年[1866]開場。一等馬見所昭和4年[1929]竣工 横浜の西洋館を多く手がけたJ.H.モーガン[1873~1937]作。

ただ周五郎が歩いた時代は戦後の横浜。この競馬場を中心にした台地は米国軍とその軍属の施設に変わっていた。

意外なことに周五郎は、父がキリスト者でありじぶんは正則せいそく学園(明治29年[1896]創立)の夜学で英語を学んでいたので、日々の会話に英単語をはさむのを好んだ。時代小説のイメージがある作家は占領軍下の本牧アメリカ文化は居心地がよかったのかもしれない。

いま公園も含めて広大な旧占領軍施設は横浜市に返還されたがいまだ鉄条網に囲まれたままの場所があちこちに残る(米海軍消防隊含む)。

さて競馬場を過ぎて周五郎が見たものは大芝台の根岸共同墓地だろう。丘上から窪地の底へ墓石碑群がひろがって圧倒される。墓地内をさまよう周五郎は、「ご苦労さまでした」と墓にこうべを垂れタバコをふかし一刻をすごしたという(*6)。

根岸共同墓地。遠方にランドマークタワーが見える。

(*6)『人生の冬・自然の冬』 山本周五郎

それにしても横浜の中心部に、死の都ネクロポリスがあったとは。そばの華僑の墓苑「中華義荘地蔵王廟」が天上の楽園のようにも見える。平楽のバス道を中区から南区へ坂を下る。数ある坂で周五郎は大坂を使ったらしい。

大坂

『季節のない街』は、時代小説が多いなか黒船明の映画『どですかでん』の原作になる異色な作品だ。「ここには時限もなく地理的限定もない」、匿名の街だという。それは下町のシリアスで滑稽な人間ドラマだが、街のモデルが実在すると知ったのは僕が横浜に転居してからだった。同じ地区に在住する横浜遺産発見のNPOの遊歩人に案内してもらった。

それはさきの根岸森林公園から中村川の河岸に下ったところ。高い崖に抱かれように、路地と長屋と銭湯、飯屋や角打ち(酒屋の立ち呑み屋)があり、昭和が午睡してるような街並だ。小説家はここの夫婦家族に身を寄せて聞き耳をたて、その性的なきずなに驚き呆れ、たくましき生き方を描いてみせた。そこには浦安の『青べか物語』の「私」はなく、匿名の人びとの愛おしい哀愁とニヒルな街角が浮かび上がる物語だった。

この長屋もさいきん取り壊された。
銭湯仲乃湯には露天風呂もあり人気だ。
横浜橋通商店街の脇路。

周五郎はさらに川を渡り、いまも開演の大衆演芸場「三吉演芸場」をへて横浜橋商店街を抜けたろうが、その裏手には永真えいしん遊郭があり金比羅大鷲神社には、遊廓「富士楼」で育った故桂歌丸さん銘入の玉垣が見られる。

周五郎はとうじ横浜一の繁華街、伊勢佐木町の蕎麦屋「出嶋屋」や場末の映画館を楽しみ、かつて横浜の日本橋といわれた花街(二葉、新川町)、料亭「やなぎ」を贔屓にしていた。

伊勢佐木町裏。かつての若葉町映画街。

『季節のない街』の長屋のほとんどはマンションになり、「出嶋屋」は数年前に食したが閉業。映画館は若葉町の看板枠と横浜シネマ「ジャック&ベティ」に残り香がするが、花街の見番も消えて街の記憶をたどるのは難しい。

山本周五郎が日課のごとく歩いたのは横浜の港や関内ではなく関外。そこは周縁部の台地と断崖と谷戸の連続だった。楽な道ではない。戦後日本から、文明開花や幕末を超えて戦国期や鎌倉時代の崖の地霊、磯場の信仰の宿る土地だった。そして市井の人々の息づかいがするちまた

山本周五郎が執拗に歩いた理由はまだ掴めないが、それは彼の文学世界の中にしか見つからないかもしれないと、さいきん思いはじめている。

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在住の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。

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