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北鎌倉の台峯で大蛇桜(オロチザクラ)をさがす|新MiUra風土記

この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第25回は、北鎌倉の台峯。桜の大樹を探す途上で新たな出会いが?

大船駅の観音様を眺めながら、横須賀線は左へカーブを切ると空は明るくなり、低い山並が右手にみえる。次は北鎌倉駅で昔のままのような素朴なホームと駅舎。沿線には鎌倉五山(*1)のうちの三名刹があり、駅前は古都の風情をまだ残している。

(*1)鎌倉五山 鎌倉幕府が臨済宗の寺に制定。建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺。

ときにはその一つの円覚寺の仏殿に詣でて、境内の映画監督小津安ニ郎(1903-1963)の墓前に参る。墓石にはただ「無」の一文字が彼のすべてを語るかのようで、自分ならどう記すかと問われているようだ。
 
小津安ニ郎と北鎌倉といえば、映画『晩春』『麦秋』などのロケでおなじみだが、自宅は浄智寺脇の細い洞門を抜けた谷戸にあり、いまは叶わないが、その奥の日本画家小倉遊亀邸を訪ねたさいに小津邸を眺めたことがある。女優の故原節子がここを涙して行き来したという伝説を思い出す。
 
さて今日も駅口の「光泉」に寄る。小津が好んだいなり寿司の銘店だ。北鎌倉駅を起点にした散在ガ池・天園てんえん六国見山ろっこくけんざんなどの遊歩にはいつもお昼用にここで調達していた。

北鎌倉駅前の「光泉」(中)、喫茶「門」(右)は小町通から移転。 北鎌倉には建築家榛澤敏郎(はんざわとしお:1930-2020)設計の鎌倉能舞台、店舗が多くある。

参拝客に逆行して県道21号線をゆくと、さきの山並みから見下ろす校舎は北鎌倉女子学園だ。ここに半世紀前、JKアイドルの先駆け的な女優の内藤洋子(東宝)が通っていて、この山は隣町の高校生だった僕には近づきがたい聖域のように見えていたものだ。

それが台峯だいみねと知ったのは、写真集『鎌倉の森 台峯』(関戸勇 岩波書店)による。ぐうぜん僕の写真集を担当した同社の編集者が手がけたもので、北鎌倉駅ホームからの見慣れた風景にこんな秘境があったのかと震えた。とくに大蛇桜オロチザクラという八岐大蛇ヤマタノオロチのような幹をした古木は台峯の護り神だという。それ以来、桜木に魅入られて内藤洋子の聖山は忘れてしまった。この山はいま「山崎・台峯緑地」と呼ぶ。

台峯への坂道の住宅地を抜けると神明神社と山崎の切通きりどおし。鎌倉七口(七切通)ではないが鎌倉時代からのときの断層か。オーバーツーリズムの鎌倉を忘れていた。

山崎の切通

台峯の北の入山口に北大路魯山人についての案内板がある(*2)。亡くなるまでの32年間、この森で作陶等多彩な創作をして客をもてなした慶運閣趾だという。登窯(星岡窯)があった広い敷地に残った礎石を使い整備され地元民の憩の場になっていた。

(*2)北大路魯山人(1883-1959)京都府生まれ。陶芸家。料理研究のかたわら多彩な食器、陶器を創作。書、篆刻、漆芸、絵画にも才気を表す。美食家でもあった。北鎌倉では1927年~1959年に活動。

北大路魯山人の星岡窯があった跡地

小津安ニ郎ゆかりのいなり寿司を美食家魯山人邸址でいただく。なんて至福のいっときだろう。

光泉のいなり寿司

台峯の北管理事務所を訪ねた。すっきりしたデザイン。最新の緑地作りのノウハウを参考にしたのかトイレ以外は自販機も置かない。

山崎・台峯緑地の北管理事務所

自然と景観を残す鎌倉三大緑地は広町、常盤山とこの台峯。精神科医で作家の故なだいなださんらの保全活動もあり、長い年月をへて昨年5月に鎌倉市の風致公園「山崎・台峯緑地」としてこれまでの中央公園の隣に開園した(*3)。かつて古都を揺るがす宅地開発計画を停めたナショナルトラスト運動発祥の町(作家大佛次郎ら呼びかけ)は、いまオーバーツーリズムという新たな問題に見舞われている。

(*3)鎌倉市HP、『北鎌倉発ナショナル・トラストの風-分散型市民運動の時代がやってきた!』(野口稔 夢工房)

「大蛇桜はどこに在るのでしょう?」と管理事務所の職員に尋ねた。写真集の地図には載っていて、ここの公式案内板には無い。台峯を歩いてきて似たヤマザクラの巨木を撮影してきたが自信がなかった。

確かなのは西端の尾根路。詳細にその位置を教えてくれた老職員は、ただオロチザクラは去年数本が倒れて八岐大蛇ではなくなった、という。

そして彼は「ところでルリモンハナバチは知ってる?」と話題を変えた。秘境のオロチザクラ探しへ向かう気でいた写真家は「それ何?」と訊くしかない。

「青い色した幸福を運ぶハチだよ、Blue Bee!」。

きれいでしょと、自分のスマホの写メを見せた。台峯で撮ったというそれは文字どおり瑠璃色をしたハチ。前回来た時は谷戸の池ルートは、ミツバチだらけでアラスカで使ったモスキートヘッドネットを被ったせいで視界が悪かった。ただ絶滅危惧種らしいので必撮?したい! 管理事務所を出るときにはオロチザクラとルリモンハナバチの2頭?追う気分になっていた。

出発点の「清水の谷戸」は山崎小学校の農業体験の棚田だ。ここから台峯の遊歩路は南北に3本あり、東と西の2本は高度のある尾根路で、真ん中は谷戸と池の低地だ。風が抜け歩いて楽なのは東西の尾根路だが、生物の多いのは谷戸路だろう。

清水谷戸
谷戸路の緑のトンネル

希少な瑠璃色のハチと出会いたい。またこの路をたどろう。

他の二つの緑地や隣の中央公園は、緑化意識の高揚のための「都市緑化ゾーン」や現存する田畑を余暇活動で使う「自然活用ゾーン」。動植物の生息地としての景観と生態系を配慮した「保全ゾーン」などで構成、台峯の3本のルートはまだわずかな階段と道標など最低限の整備がされているだけで、かなり「自然のまま」が意識されているかのようだ。

緑が濃密な谷戸路

「倉久保の谷戸」はまさに手を加えてないかのような湿地帯。路端に群生するツリフネソウの花弁が濡れてミツバチがあちこちでついばむが瑠璃色は見つからない。ジョロウグモが木洩れ陽を透して巣を張る「谷戸の池」は泉鏡花や上田秋成の怪異小説にでてきそうな水気を湛えていた。

ツリフネソウ
谷戸の池

谷戸路から左折すると東の尾根路に登る。台峯3本のうちもっとも明るく眺めの良い遊歩路だ。遠目に富士見ができ、いま来た円覚寺と北鎌倉駅、六国見山がくっきり見られる。

さてオロチザクラの西の尾根路をめざして、いったん森をでるとそこは梶原。あの鎌倉幕府の御家人梶原景時の本拠地だが、山腹一面に戸建て住宅街が拡がっていて、台峯と中央公園が人家に包囲された孤島のよう。あらためて台峯が奇跡のようだと実感する。

東の尾根路から円覚寺と北鎌倉駅、六国見山を望む。

台峯の梶原口から再び登山路に入った。オロチザクラと見紛うヤマザクラの古木群を抜けると三浦半島っぽい、やぶ笹の尾根路がつづく。今度はオロチザクラはすぐ分かった。ただ半数の幹は根っこからねじり折れ谷底に「くび」をぶら下げていて八岐大蛇にならない。

オロチザクラ

傷ついた台峯の森の護り神。尾根路にへたり込んで「来春、桜花を咲かせるだろうか?」と想っていたら、「すいませーん」と若い男子の声がする。

マウテンバイクではない! なんと制服の高校生が通学用自転車で押し登ってきたのだ。もうここは鎌倉の秘境では無い。オロチザクラの芽吹きを願いつつ、瑠璃色のハチも求めて来季また森を歩いてみよう。

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在住の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。

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