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空海の見た蒼 安田 登(下掛宝生流能楽師)

小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2024年4月号「そして旅へ」より)

 旅には列車を使うことが多い。それは途中下車ができるからだ。能は、旅人がその途次で古人こじんの霊と出会って物語が始まるが、霊との邂逅かいこうは目的地に着く前の寄り道で起こることが多い。

 能の役者にはシテとワキというふたつの役割があり、霊の役をするのはシテと呼ばれる役者で、こちらが主人公だ。そして、旅人の役をする役者をワキという。私はワキ方に属する役者なので、ふだんの旅でもよく寄り道をする。

 高松市(香川県)で能の公演があった。新幹線で岡山まで行き、まずここで途中下車して吉備津彦きびつひこ神社に参詣する。それから瀬戸大橋を渡る列車に乗って、四国に入る。

 四国といえば空海だ。密教を日本にもたらした真言宗の開祖だが、空海の業績はそれだけにとどまらない。能書家や名文家としても広く知られ、その書や文章は日本だけでなく、中国でも高く評価されている。また、満濃池まんのういけ(香川県まんのう町)の修築などの土木事業にも優れ、綜芸しゅげい種智院しゅちいん(京都市)などの万人に向けた教育施設を開設したりもした。

 弘法大師の旧跡は日本全国にある。その多くは伝説だが、そんな伝説ができたのは空海が日本中を歩いたからだろう。空海こそ歩く僧、すなわち能のワキの始祖ともいえる人なのである。

 現代人の私たちが、そんな空海と一緒に旅をするのが四国遍路だ。お遍路さんの笠などには「同行二人」と書かれる。常に空海と一緒にその足跡を訪ねて巡礼をするという意味だ。

 今回は空海の誕生の地を訪ねてみたいと思った。

 空海誕生の地といわれる場所はいくつかあるが、もっとも有名なのは善通寺ぜんつうじ(香川県善通寺市)だ。ここは父である佐伯氏の寺である。

 しかし、空海が生まれたのは奈良時代、子どもは母の里で生まれた可能性が高い。母の里は父の里から海の方に向かった多度津たどつちょうにある。

 空海の幼名は「真魚まお」、真実の魚。海に関連した名前だ。また、最澄に宛てた手紙である「風信帖ふうしんじょう」などに書かれる空海自身の署名の「海」という字は、上に「毎」、下に「水」という書体で書かれる。「毎」とは髪飾りを付けた母の姿である。それに水、すなわち海。空海にとっては海辺の母の地は特別だったのであろう。

 そこで、母の土地を訪ねると、屏風ヶ浦びょうぶがうら海岸寺というお寺があった。お寺の庭に立てば、母のように穏やかな海が望まれる。その上には果てしない蒼穹そうきゅうが広がる。

 空と海、「空海」だ。

 自然に呼吸が深くなる。能『葵上あおいのうえ』で覚えた不動明王の真言を低く唱える。

 海岸寺には、赤ちゃんの空海の産湯に使ったといわれる石製の「弘法大師御産おさんたらい」もある。ご住職に「ここを空海生誕の地といってもいいでしょうか」と聞くと「いえいえ、出生産屋跡とお伝えください」という。どこまでも控え目なご住職である。

文= 安田 登 イラストレーション=駿高泰子

安田 登(やすだ・のぼる)
下掛宝生流能楽師。1956年、千葉県生まれ。能楽師のワキ方として活躍し、能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演も行う。『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京を中心に全国各地で開催。『見えないものを探す旅』(亜紀書房)、『『論語』は不安の処方箋』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。

出典:ひととき2024年4月号

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