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京都の路地にひっそり佇む明智光秀の塚――2つの怨霊を封じ込めた首塚の「謎」

文・ウェッジ書籍編集室

 今年の大河ドラマ「麒麟がくる」(主人公・明智光秀)はコロナ禍による撮影中止を経て、ようやく放送が再開されました。光秀は主君・織田信長を本能寺で謀殺したのち、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、逃げる途上の小栗栖(おぐりす)で落ち武者狩りの襲撃を受けて落命しました。それは本能寺の変からわずか11日後のことでした。
 小栗栖にある明智藪(あけちやぶ)は落命した場所とされ、近くには塚が築かれています。また、京都らしい風情の溢れる東山の白川付近にもひっそりと首塚が築かれています。なぜ、光秀の塚とされるものは京都に点在しているのでしょうか?
 ここでは、9月16日発売の『京都異界に秘められた古社寺の謎』(新谷尚紀 編、ウェッジ刊)から、光秀の塚をめぐる謎についてみていきます。

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京都の住宅地にある光秀のささやかな墓

 本能寺の変で自刃した織田信長の遺体の行方については、最近もさまざまな謎が取り沙汰されています。京都市内には、信長の墓や廟所(びょうしょ)とされるものがいくつか存在します。

 豊臣秀吉が信長の菩提(ぼだい)を弔うために建立した大徳寺総見院の墓、信長の三男・信孝が本能寺に建立した供養塔、そして京都御所の北東、上京区鶴山町にある阿弥陀寺(あみだじ)の墓があります。

 このうち阿弥陀寺のものはあまり有名ではありませんが、この寺はもとは北区蓮台野(れんだいの)にあり、寺伝によると、織田氏と親交のあった開山・清玉(せいぎょく)上人は変後ただちに本能寺に駆けつけ、すでに荼毘(だび)に付されていた信長の遺骨を引き取って阿弥陀寺に納めたのだといいます。もしこれが事実であれば、阿弥陀寺のものがもっとも信長の墓らしい墓ということになります。

 一方、謀反を起こしたものの「三日天下」に終わった明智光秀ですが、光秀の墓とされるものが京都市内に存在します。鴨川の東岸、知恩院の西側には鴨川の支流・白川が流れていますが、このせせらぎに沿った静かな通りのとある角を東に曲がると「光秀公」という額を掲げた小さな祠(ほこら)に行き着きます。

①-明智首塚

白川付近の路地裏にある光秀の首塚(京都市東山区)

 そこは民家に囲まれた狭い路地の行き止まりで、寺院の境内地などではありませんが、祠のそばには古びた石塔が建っています。そして、この石塔の下には光秀の首が埋まっているとされます。つまり光秀の首塚です。

 ただし、山崎の戦いで秀吉に負け、敗走した光秀が、ここでついに力尽きたというわけではなく、そもそも首塚ははじめからここにあったわけではありません。

 光秀が京都の本能寺を急襲して主君・信長を倒したのは、天正10年(1582)6月2日のことです。その後、光秀はいったん本拠の坂本城(滋賀県大津市下阪本)に入りますが、さらに信長の安土城を占領し、9日に再び京に入り、朝廷・公家・町衆らの人心掌握につとめました。

②光秀像

坂本城址公園の光秀像。山崎の戦いの後、光秀は坂本へ落ち延びようとした(滋賀県大津市)

 ところが、毛利討伐のため中国にいた秀吉が急遽東上します。13日、京から大坂への山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で光秀と秀吉の軍勢が激突しますが、光秀側が敗れました。光秀は坂本へ逃れようとしましたが、その途次、小栗栖(京都市伏見区)で落ち武者狩りに襲撃されて深傷を負ったため、ついに自害して家臣に首を打たせたとされます。享年55でした。

③明智藪

光秀が落命した小栗栖のこの辺りは明智藪(あけちやぶ)と呼ばれる(京都市伏見区)

 光秀の首の「その後」についてはさまざまに伝えられていますが、信長・光秀・秀吉らと親交のあった神道家・吉田兼見(かねみ)の日記『兼見卿記』によると、15日までに首は発見され、18日からは京の六条河原で晒され、22、23日には粟田口(あわたぐち)に埋められて首塚が築かれたとされます。

公開処刑場となった光秀の首塚

 光秀の最初の首塚が築かれた粟田口は東海道・中山道の山科(やましな)から京都への入り口にあたる場所で、白川に架かる東山区の三条白川橋から、蹴上(けあげ)、山科区の九条山のふもとまでの街道沿いを指します。洛中と洛外を結んだ街道の出入り口であり、現在では寂しい裏道のような雰囲気を漂わせていますが、中世・近世には人の往来の激しい交通の要所でした。

 そして、とくに東山と山科の境界付近は、古くから罪人の首を晒す刑場としても用いられていました。多くの人が行き交うがゆえに、見せしめにするには格好の場所であったからです。

 光秀の首塚が築かれたのもその流れだと思われますが、『京都坊目誌(ぼうもくし)』(1916年刊)が引用する『華頂要略稿本』によると、そのときは光秀の首の他に数千の首が集められて首塚がつくられたといいます。そして江戸時代に入るとそこは明確に刑場となり、公開処刑や晒し首がたびたび行われました。

 首塚を築くことは、もちろん死者供養のひとつではありますが、それは怨霊封じの呪術でもありました。また民俗学的にみれば、街道の出入り口や峠など交通の要所、境界の地に築かれた首塚は、邪気・邪霊の都市や村落への侵入を防ぐ呪術的な役割も期待されたはずです。

 刑場の跡は現在では明確ではありませんが、旧街道の九条山あたりに供養塔が建っていて、その付近が跡地だといわれています。

 そして、『京都坊目誌』や現在の光秀首塚に掲げられている案内板によると、江戸時代中期の安永~天明初年ごろ(1770~80年ごろ)になって、能(のう)の笛吹で、光秀の子孫を名乗る明田(あけた)理右衛門なる人物が、粟田口の首塚にあった石塔を梅宮町にあった私宅に運び移しました。理右衛門の没後も石塔は守られ、明治維新後にはやや西に場所が移されました。それが現在の光秀首塚とされています。

④三条白川一本橋

光秀の首塚近くにある白川一本橋(京都市東山区)

光秀は比叡山の修行僧の生まれ変わりだった!?

 光秀首塚のもとの所在地である粟田口の北方には比叡山の山並みが広がっていますが、よく知られているように、比叡山延暦寺は元亀(げんき)2年(1571)、信長によって徹底的な焼き討ちに遭っています。そのとき信長の右腕となって活躍したのが、光秀でした。

 おもしろいことに、江戸時代には、「じつは光秀は明智坊(みょうちぼう)という延暦寺の修行僧の生まれ変わりだった」という伝説が生まれています。宝永2年(1705)に刊行された浮世草子『御伽人形』のなかに、つぎのような話が載っています。

 昔、延暦寺に明智坊という修行僧がいたが、寺法に背いたために比叡山を追われた。明智坊はこれを恨み、自ら命を絶ったが、弟子には「遺体を比叡山の見える方角に向けて葬ってくれ」と遺言していた。かの一念が通じたのか、その後、亡魂は明智光秀に転生(てんしょう)し、信長の命を受けて延暦寺を焼き払った――。

 比叡山の焼き討ちは、光秀の前生である、かつて山を追い出された明智坊の遺恨が原因だったとされています。

⑤鴨川からの比叡山

鴨川から見る比叡山。光秀は比叡山焼き討ちの功により、信長から坂本を含む所領を与えられた

『御伽人形』は浮世草子ですが、この話は全くの創作というわけでもないようです。『御伽人形』より20年ほど前に刊行された京都の地誌『雍州府志(ようしゅうふし)』(1686年刊)には「明智坊塔」という項目があって、この話の原形とおぼしき内容が書かれています。

 それによると、明智坊は寺法に背いて延暦寺を追われ、松尾(西京区)の北にある山に寓居。明智坊は、寺を大いに恨み、死に臨むと「死んだらここに葬り、自分をかたどった石像をつくって比叡山の方角に向けて建ててくれ。死後、必ず比叡山を滅ぼしてみせる」と弟子に遺言しました。こうして山腹に建てられたのが明智坊塔であるとされています。

 さらに『雍州府志』は「織田信長が比叡山を焼き討ちしたとき、明智光秀が部将となったが、光秀は明智坊の生まれ変わりだったのだろうか。怪しむべし」と結んでいます。

 明智坊塔は『都名所図会』(1780年刊)には「明智坊石像」として紹介されていて、「松尾大社の北、一町(約110メートル)ばかりのところにある」と書かれています。現在ではその場所を確かめることはできず、そもそも明智坊が実在の人物であったかどうかも定かではありませんが、そこは江戸時代の京都の人びとにはよく知られていた名所だったと考えられます。

 たまたま同じ名前が含まれていたので、明智坊と明智光秀が付会されたにすぎないのかもしれません。いずれにせよ近世には、光秀に対して、「信長を裏切った希代の謀反人」というイメージだけでなく、「比叡山に祟る修行僧の怨霊」というイメージも流布していたわけです。

 比叡山の僧侶は中世にはひどく堕落していて、信長が焼き討ちにした真意はそこにあったとされますが、そんな比叡山を追われた明智坊は、破戒僧の横行を尻目に真摯に修行に励む清僧だったのかもしれません。その人物像は、有能な武将で教養も豊かでありながら、結局は主君に疎んじられて悲運の道をたどった光秀のそれと重ならなくもありません。

 いまでは民家に囲まれた光秀の首塚ですが、はたして明智坊の怨霊も封じ込めているのでしょうか――。

――明智光秀の首塚については、『京都異界に秘められた古社寺の謎』(9月16日発売、ウェッジ刊)の中で京都の他の古社寺とともに、さらに詳しく触れています。全国主要書店およびネット書店で発売中です。ご注文はこちらから。



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