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始まりは浦賀から|新MiUra風土記

この連載新MiUra風土記では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第1回は、ペリーが来航した三浦半島の南端・浦賀を歩きます。

 いっぱい旅をしてきた。大阪の陋巷ろうこうに生れ、神奈川の逗子で育ち、東京で仕事をはじめ、異邦の地をあまた訪ねて、いま横浜に居て三浦半島を歩いている。イタリア半島に似たこの三浦(御浦とも)には、これまで漠と求めていた、モノや自然、昔といまと未来が、狭いこの半島には在るということに気づいたから。それは遊歩者フラヌールの理想郷、アルカディアだった。

干鰯ほしかの岸辺

 ゴジラのメインテーマ曲が流れる駅がある。発車の合図ではない、ホームに進入する列車の警告のため。この音、乗車待ちの人だけが聞ける。京浜急行電鉄の浦賀駅。支線も複数ある路線で京急本線の終着駅だ。下りは各駅停車のみのどんつき島型ホーム。開通は昭和5年(1930)で三浦半島の大事な駅だった。

 駅舎前のくさびの様なV型の湾は縄文海進か。浦賀はこのVに沿って町ができ、V字の左側が東浦賀、右側が西浦賀になる。

 初めて浦賀を訪れたのは1970年代。駅前は鉄骨建屋とクレーンがそびえて陽をさえぎっていた。住友重工浦賀造船所、通称「浦賀ドック」。その後、工場は閉鎖されて塀の中の船渠ドックは国の近代化産業遺産に認定されたのだ。

浦賀ドックDSC_2387

 僕はいつもV字の左側、東岸から歩く。路傍にはドックゆかりのレンガ造「水のトンネル」趾、天保6年(1835)創業の帆布店「三浦屋」が健在だ。

 浦賀豪商が眠る乗誓寺じょうせいじの墓地。黒船以前、湊は海運業や綿作のいわしを乾燥肥料にした干鰯の交易で栄えていた。その富は全国から宗教者や工匠、文人、遊女も呼び、専福寺には小林一茶の恋人、東林寺にはペリーが記述した傑人与力の中島三郎助を祀っている。顕正寺には横須賀遊郭ゆかりの作家・山口瞳の墓もある。

 独り、二人歩きの女性が東叶神社に向かっている。恋愛祈願とパワースポットで人気。叶神社は湾を挟んで西と東に社があり、西の勾玉と東のお守袋を合わせるとご利益が叶うという。

午睡の東浦賀

 彼岸へは渡し船がいい。干鰯問屋だった通りを桟橋に向かう。この路端には人の気配はなく、家並みは眠りこけている。風が心地よい。僕のこわばった心身は徐々にゆるんでくる。この体感に誘われて浦賀に足が向くのかもしれない。しばらく行くと船着場のそばの「徳田屋」跡に着く。

 ここには黒船を見に吉田松陰や佐久間象山が篭った旅籠があった。現在そこにある建物のくすんだ壁は、往時そのままに時が止まったかのような風情を見せている。

 この湊は風待ちがよく三浦一族など水軍ゆかり船大工らがいた。浦賀造船所(のち船渠)は幕末から終焉へ、1000隻もの軍民船が進水したという。勝海舟の「咸臨丸」の修船から洋式軍艦建造の拠点へ。お雇いオランダ人、フランス人らはこの湊に近代科学技術を(フランスパンも)伝えたのだ。さきの与力中島三郎助、榎本武揚、小栗上野介、渋沢栄一らが尽力し、やがて北の横須賀村に西洋式製鉄所ができ、水道、灯台、造船所へ拡大してゆく。さらには横浜港に巨大船渠(現みなとみらい)が建設されて富国強兵日本の礎となった。

 対岸から渡船がきた。300年前から東西浦賀をつなぐ航路は、わずか数分の距離だ。いまはれっきとした「横須賀市道2073号」という公道。ときにたゆたう波間に、僕は、かつて旅した関門海峡、香港島のスターフェリー、トルコのボスポラス、アラスカのケチカンの海峡を追想する……。「がん!」と桟橋の着岸音。昼夢は覚め西浦賀上陸だ。

渡船_DSC_5239

鏝絵こてえと奉行所

 源氏再興を祈願した西叶神社は東西にわかれる叶神社の本社になる。天保期の龍神の彫刻、浦賀遊郭の大店が寄進した大灯篭が港のにぎわいを偲ばせる。裏山には東福寺。「伊豆の長八」に劣らない鏝絵の銘宝が蟇股かえるまたを飾っている。酒井抱一の亀の絵馬も必見だ。

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「海の関所」浦賀奉行所は江戸湾の出入り口で、人と積荷の「船改め」から出没する異国船への海防も兼ねていた。足りない船や水主かこは廻船問屋が請負うのだ。その問屋街から奉行所趾を目指す。川間町内会館の破風には鳳凰の鏝絵が力強く翼をひろげている。石垣だけの奉行所趾、マリーナに残るレンガ式「川間ドック」(国内に残るレンガ式ドックは浦賀ドックと川間ドックの2基のみ)が貴重だ。いわし油の江戸期の燈台、燈明堂はここからすこし先にある。

「陸軍桟橋趾」は前の大戦で南方戦線などからの引揚げ兵士50余万人が帰国した埠頭。そこには浦賀奉行所の船番所趾があって「入り鉄砲に出女」も取締まる与力・同心が詰めていた。黒船艦隊出現のときはどうだったろう?

ペリー艦隊を見たご先祖

 江戸から駆けつけた坂本龍馬が、どこから黒船を眺めたかはわからない。西叶神社そばに文政年間(1810年代)創業の金文堂信濃屋書店がある。店主の山本詔一さんは7代目で横須賀開国史研究会会長をされている。浦賀関連書の棚がいい。

信濃屋書店DSC_5111

 店主がおられればラッキーで、ときにはぶしつけな質問をしたこともある。「消えた浦賀遊郭はどこへ?」とか。「黒船来航時、この店はもう開いていたから、うちのご先祖が見ているはずだ」と最近おしえてもらった。幕末の書物蔵からペリー見聞の証が見つからないだろうか。

7_ペリー劔崎岬

ペリーが目印にしたという剱崎

 金文堂信濃屋書店前は浦賀道。三浦半島を縦横に結ぶ古道だ。記紀神話のヤマトタケルの東征伝説、浦賀の果ては海路で房総につながる。その道をさきの浦賀駅へ戻った。途中の浦賀警察署は昨秋久里浜に移転した。奉行所時代から行政の中心は西浦賀だったが、商業を含め中心は久里浜エリアになっているのだ。浦賀ドックを所有する住友重機はクレーンを撤去し、敷地を横須賀市に寄付した。市は海洋都市構想の拠点とし、レンガ造1号ドックを軸に整備公開を計画している。

 浦賀ドックのフランス積レンガ塀が哀愁を帯びて、蒼天の駅前との彩りが時のうつろいを醸す。およそ170年前、造船所は浦賀を育み「坂の上の雲」、近代日本の始まりの場所だった。

 帰路はまた浦賀駅、昭和なゴジラ曲に頰がゆるむ。そのゴジラ初上陸はペリーのそれに近い浦賀の「たたら浜」との伝あり、観音崎自然博物館のそばには10分の1の足痕?があって、観光客を楽しませている。

8_たたら浜

ゴジラ足跡_DSC03919

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。


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