土井善晴先生が「𠮷兆」を訪問!〝日本料理〟を完成させた料亭のいま
高麗橋𠮷兆本店の館が、建て替えをすませて、2019年7月、新たにスタートしました。日本料理界の頂点を極めた高麗橋𠮷兆です。普請、しつらい、もてなし、品格の高いお料理という湯木貞一(ゆき ていいち)が作りあげた日本美の世界は、どうなっていくのか、変わるもの変わらぬもの、日本料理のこれからが知りたくて、高ぶる心落ち着けて、訪ねました。
私にとって、𠮷兆は特別な存在です。湯木貞一は、私が師事した味𠮷兆のご主人・中谷文雄のさらに上の大ご主人だからです。湯木貞一に私淑していますと書くだけでも、おこがましい気がするほどです。
茶の湯文化と𠮷兆
約束の時間まで、少し間があったので、地図を見ながら碁盤の目になった船場の高麗橋あたりから、南に向かって歩き、薬問屋が並ぶ道修町(どしょうまち)を過ぎて、平野町にある湯木美術館を見学しました。茶の湯と料理以外の楽しみは歌舞伎を見ることだけという湯木が、財を惜しむことなく収集した道具を、たくさんの人に見てもらうために作った美術館です。
展示の茶道具には、実にすっきりした書きぶりの解説がそえられています。道具は、場に調和して真美を表すもの。渋い天目茶碗と、たっぷりとした姿の濃い洗朱(あらいしゅ)を塗った天目台の取り合わせを見て、ああ𠮷兆だなあと思うのです。万事潔し、ここを度々訪ねれば、随分勉強になります。美術館の待合スペースにある𠮷兆大ご主人の肖像写真と並んで写真を撮りました。湯木貞一は背もすらりと高く、いつも身だしなみをきちんとしたエレガンスという言葉が似合うきれいな人でした。
本店に行くと、私より少しお若い当代主人・湯木潤治さんが水を打った玄関の外で待っていてくださいました。ご挨拶をして顔を上げると、つつましい佇まいをした石造りの玄関の内側に𠮷兆のトレードマーク〝千成瓢箪(せんなりびょうたん)〟の縄のれんが見えました。千成瓢箪といえば、秀吉公の馬印。大阪の人は、平民から天下人にのぼり詰めた人間味あふれる秀吉が大好きなんですね。
神戸の料理屋の長男として生まれた湯木貞一が、1930年(昭和5年)、大阪新町に「御鯛茶處(おたいちゃどころ)𠮷兆」を開店したのが𠮷兆の始まり。ひと通りの仕事を覚えた29歳の青年が作ったのは、奥行き6間(約11メートル)という細長いお店。テーブルは黒塗で縁は朱塗の爪紅(つまぐれ)*、椅子も朱塗にして、萌黄色の座布団が載る。客席と調理場の間には小さな床を設け、風呂釜を据えた、狭いながらも茶室の趣のある洒落た店。鯛茶が85銭、鯛の芋かけ75銭、日替わりの一品料理がある、余所よりも高い小さな高級料理屋です。後年湯木をフランスの旅に連れ出した料理研究家・辻静雄は、𠮷兆の印象を「その色調である」と看破しています。
𠮷兆という屋号は、十日戎(とおかえびす)の〝𠮷兆笹〟からとったそうです。瀬戸内海と紀伊水道の真ん中の大阪湾でえべっさん(恵比寿様)が釣り上げた大きな鯛は、大阪の前、つまり大阪湾の魚。浪速(なにわ)とは、魚(な)の庭(にわ)と言われるほど魚がたくさんいたのです。大阪料理の第一は椀刺(わんさし)と言われ、椀物とお造りが一番のご馳走。𠮷兆のお造りは、夏の一時期をのぞいて鯛で決まり。𠮷兆には、明石から毎日メスの活け鯛を運ぶ人がいましたが、今もお孫さんが継がれていると聞いてうれしくなりました。
湯木の初めての料理屋は、開業して半年もたたぬうちに大評判を呼び、素朴と洗練という、対極の日本的美意識を取り入れた料理を出すと、船場の名だたる旦那衆を喜ばせ、三菱財閥の岩崎小彌太をして、「日本一の小さな料理屋で、日本一のおいしい料理屋」と言わしめます。誰も見たことがない新しいものを作る湯木の天才は、この時すでに証明されていたように思います。彼は料理を通して、小林一三、山本為三郎、池田勇人*といった超一流の人物に愛され尊敬され、後押しされました。
伝統と強い矜持を感じる料理
全面改装したお座敷は、できるだけ建て替え前の通りに再現され、大広間にある松竹梅の板絵もそのままです。大きく変わったのは、かつての真塗の長膳に脚を取り付け立派なテーブル(椅子席)にされたことです。これによって美観を損ねるどころか、かつてなかった力強さが𠮷兆の座敷に生まれたように思います。新しい𠮷兆の座敷と普遍の域に達した𠮷兆の力のある懐石料理の調和は見どころです。
湯木の考案を数えだしたらキリがありませんが、お造りを一層おいしく食べてもらえるように、器に氷を敷いたのも彼の着想。古典文学、有職故実(ゆうそくこじつ)、花鳥風月といった文化を象徴的に取り入れた数々の趣向によって、日本料理をどきっとするほど華やかにしました。当時、一世風靡した𠮷兆の料理に倣った“𠮷兆風料理”が流行っても、「真似されるほど良いものいうことや」と意にも解さず、日本料理界を牽引したのです。
あまり知られていませんが、28歳の時、星岡茶寮の北大路魯山人のそばで働きたいと上京しました。願いは叶いませんでしたが、後年、互いに尊敬の念を持って訪ね、交友を深め、魯山人自作の器が石炭箱に詰めてたくさん送られて来たそうです。魯山人はその芸術の心をもって器を料理の着物と考え、「熱いものは熱く」という料理屋の感覚をもって、今につながる料理屋の日本料理を作りました。魯山人が、日本料理を作った人なら、湯木貞一は日本料理を完成させた人です。
1970年(昭和45年)、大阪で万国博覧会が行われ、世界中から姿も味も強い本格的なフランスの肉食文化が入ってきた頃、湯木は将来の日本料理を憂い、ふと思いついたのが、「世界の名物 日本料理」という言葉でした。辻静雄に招かれたフランスの3つ星シェフ、ポール・ボキューズが、𠮷兆で鮮やかな緑と歯切れを残して茹で上げたインゲン豆を見て、その料理からフランスに「ヌーベル・クイジーヌ」(新しい料理の意)という革命を起こしたと想像するのは、楽しいものです。わび茶を完成させた千利休からさらに踏み出した、華やかさと強さをプラスした品格の高い懐石料理は、金の茶室を造らせた秀吉の強くて艶やかな茶の湯、茶の琳派であったと思います。
時代の最先端であったポール・ボキューズのフランス料理も𠮷兆の料理も、今ではクラシック(古典)となりました。クラシックという伝統は、大自然と結び、土地と人間の暮らしに繋がるものです。恐れるべきは、すでに始まっている伝統の切り捨て。それは唯一の住処である地球の否定。地球を諦めるのですか。伝統は在ることが重要で、迷い、見失いそうになった時、訪ねれば、初心に帰してくれるところです。
文=土井善晴 写真=岡本 寿
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出典:ひととき2020年5月号
※この記事の内容は雑誌発売時のもので、現在とは異なる場合があります。詳細はお出かけの際、現地にお確かめください。
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