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北斎よりも江戸っ子に愛された画家・鍬形蕙斎を知っていますか?

あの葛飾北斎よりも江戸っ子に愛された画家がいました。その名は鍬形蕙斎(くわがた・けいさい)。浮世絵師として活躍していた蕙斎は、31歳で御用絵師に大出世。同時に現代で言う、ゆるカワ絵も描いて江戸っ子の心をつかみました。蕙斎の面影を追って、東京江戸散歩に出かけます。(ひととき2021年5月号特集 鍬形蕙斎―北斎を凌いだ男より一部を抜粋してお届けします)

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「北斎嫌いの蕙斎好き」という言葉がある。北斎は、言わずと知れた江戸時代後期に活躍した浮世絵師・葛飾北斎。一方の蕙斎とは、北斎より4歳年下の画家・鍬形蕙斎である。本誌20頁からの旅のテーマは、その蕙斎による傑作「江戸一目図屛風(えどひとめずびょうぶ)」。江戸の全景を詳細に描いたこの鳥瞰図を追って、府中市美術館の名物学芸員・金子信久さんとともに江戸の面影を訪ねようというわけだ。と言っても、今や蕙斎は北斎にすっかり水をあけられ、あまり知られた画家ではない。まずは金子さんにその画業をかいつまんでレクチャーしていただこう。

浮世絵師から異例の出世

 1764年(明和元年)、江戸の畳職人の子として生まれた蕙斎は、幼い頃から絵を好み、浮世絵師・北尾重政に入門。そして1778年(安永7年)、15歳*1のときに北尾政美として黄表紙*2の挿絵で画家デビューを果たす。ちなみに蕙斎が生まれた翌年、鈴木春信が「錦絵」を創始している。それまでの浮世絵は墨1色、せいぜい紅色が加わった2色摺で、多色摺の色鮮やかな錦絵の登場は大革命だった。ついでに言えば、喜多川歌麿は1770年(明和7年)、北斎は1779年(安永8年)にデビュー。蕙斎が活躍したのは、浮世絵の技術も表現も成熟し、スター画家が群雄割拠する時代だったのである。

*1 本文中の年齢は数え年
*2 大人向けの絵入り小説。名称は表紙の色から

 1794年(寛政6年)、版本*3を主戦場に活動していた蕙斎に、大きな転機が訪れた。津山藩(現岡山県)の6代藩主・松平康乂(やすはる)の御用絵師として召し抱えられたのである。大名家の御用絵師は狩野派の独壇場で、身分の低かった浮世絵師の登用は破格の扱い。しかも津山藩は親藩(徳川家一門が当主)で格式が高い。「江戸一目図屛風」の制作を蕙斎に依頼したのも津山藩だった。

*3 版木に彫って印刷した書物

〝巧まず〟に描いた『略画式』

 一方で蕙斎は、登用後も並行して庶民向けの版本を手がけていた。1795年(寛政7年)には、絵を描くための絵手本『略画式』を刊行し、世間をあっと言わせた。

「これを手始めに、『鳥獣略画式』『人物略画式』など、蕙斎は略画シリーズをいくつも発表し、〝工夫者〟〝略画の蕙斎〟と称されるようになります。簡潔な線と独特なデフォルメは彼ならではのオリジナル。『略画式』の序文で神田庵主人なる人物が、技巧を凝らすのではなく、さらりと描いている、けれど心がある*4、と賛辞を送っています。そこが技巧の冴える『北斎漫画』との大きな違いかもしれません。蕙斎の略画はゆるい。でもヒット作になったということは、今と変わらず、当時も脱力したものに引かれる感覚があった証左でしょうね」

*4 原文には「工〈たく〉まず、つくらず、天然の風味あり。……形によらず、精神を写す」とある

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鍬形蕙斎 『鳥獣略画式』より[1797年(寛政9年)刊]
テナガザルは日本には生息していなかったが、中国の水墨画を手本にして、日本でも人気の画題となった。まるで曲芸でもしているような愛嬌たっぷりなテナガザルにこれまたユニークな動きのリスを添えて、かわいさ炸裂!

 実は『北斎漫画』も『略画式』と同様の目的で出版された絵手本なのだが、蕙斎の真似と目されていた節がある。

 幕末の著述家・斎藤月岑(げっしん)の『武江(ぶこう)年表』の補注、喜多村信節(きたむらのぶよ)の『武江年表補正略』に、〈語りて云(いう)、北斎はとかく人の真似をなす、何をも己が始めたることなしといえり。是は『略画式』を蕙斎が著して後、『北斎漫画』をかき、又紹真(=蕙斎)が「江戸一覧図」を工夫せしかば、「東海道一覧の図」を錦絵にしたりしなどしける也〉と記されているのだ。

「『北斎漫画』は初篇だけでも、『略画式』やそれ以前に蕙斎が手がけた『諸職画鑑(しょしょくえかがみ)』からずいぶん図柄を借用しています。北斎嫌いの蕙斎好きという言葉の典拠は不明ですが、こうした背景から生まれたのかも」

唯一無二のオリジナリティ

「自分が始めた」と豪語する点はいただけないものの、著作権や盗用という概念がなかった当時、他人の作品を参考にするのは珍しいことではない。蕙斎も「江戸一目図屛風」に先立つ鳥瞰図「江戸名所之絵」を描くにあたり、亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)という画家の銅版画に想を得たのではないか、と金子さんは推察する。

 陸奥国須賀川(現福島県須賀川市)で染物業を営んでいた田善は、白河藩主だった松平定信に取り立てられて銅版画の技術を習得。その作品に西洋の都市図に倣ったと思しき江戸の全景図「自隅田川望南之図(すみだがわよりみなみをのぞむず)」がある。松平定信と言えば、のちに寛政の改革で浮世絵を厳しく取り締まった一方、文化への理解は深かった。蕙斎も彼の求めに応じて「東都繁昌図巻」や「近世職人尽絵詞(づくしえことば)」を手がけている。

「蕙斎は、田善の仕事に刺激を受けたかもしれないけれど、『江戸一目図屛風』の描き方そのものは、『略画式』に通じるふわっとしたもの。一応狩野派を勉強したはずなのに、それとは一切無縁です。じゃあ何? といったら、蕙斎の描き方と言うほかない。唯一無二の才ですね」

 蕙斎のすごさがよくわかったところで、お江戸へ向かうとしよう。

解説・旅人=金子信久 文=𠮷田晃子

金子信久(かねこ・のぶひさ)
1962年、東京都生まれ。府中市美術館学芸員。専門は江戸時代絵画史。『江戸かわいい動物』『へそまがり日本美術[府中市美術館編・著]』『鳥獣戯画の国』(いずれも講談社)、『かわいい江戸の絵画史』(監修、エクスナレッジ)、『ジュニア版もっと知りたい世界の美術8 国芳と仙厓』(東京美術)など、著書多数。
𠮷田晃子(よしだ あきこ)
東京都生まれ。「芸術新潮」編集長。大手電機メーカー勤務を経て新潮社に入社。ネイチャー誌「SINRA」、書籍部門、日本最古の旅行誌「旅」を経て「芸術新潮」へ。

――本誌特集記事では、金子信久先生が蕙斎の面影をたどり、東京江戸散歩に出かけます。スカイツリーの展望台に展示されている蕙斎の絵「江戸一目図屛風」について解説していただき、見事な眺望写真を眺めていると、当時の人がその光景を描いたことに感嘆し、今すぐにでも同じコースを歩いてみたくなるはずです。また、特集内「日本美術『ゆるカワ』の系譜」では、蕙斎をはじめとする江戸の絵師が描いた貴重な“ゆるカワ”絵がずらり。どれも愛らしく、ほれぼれとしてしまいます。この続きは、本誌でお楽しみください。

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H05月号特集トビラ画像

特集「北斎を凌いだ男 鍬形蕙斎」
旅人=金子信久(解説)/文=𠮷田晃子
◉教えて金子信久さん 鍬形蕙斎ってどんな人?
◉蕙斎に誘われ東京江戸散歩
◉鳥獣戯画から蕙斎まで 日本美術「ゆるカワ」の系譜
 文=矢島 新
◉ゆるカワ絵に挑戦! お江戸スケッチ散歩
 堀 道広(スケッチ)/文=橋本裕子
◉鍬形蕙斎 北斎を凌いだ男〔案内図〕

出典:ひととき2021年5月号


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