見出し画像

【倉敷緞通】〝用の美〟提唱の柳宗悦が名付けた工芸品ラグ(岡山県倉敷市)

日本全国の“地域の宝”を発掘する連載コーナー「地元にエール これ、いいね!」。地元の人々に長年愛されている食や、伝統的な技術を駆使して作られる美しい工芸品、現地に行かないと体験できないお祭など、心から「これ、いいね!」と思える魅力的なモノやコトを、それぞれの物語と共にご紹介します。(ひととき2019年1月号より)

 表はレーヨンと麻の混紡糸に縒(よ)りをかけたリング糸。裏は数本の藺草(いぐさ)を紙テープで巻いたヌキ。そのふたつを重ね合わせて織り上げた倉敷緞通(くらしきだんつう)。どっしりとした質感と直線を生かしたモダンな意匠は、現代建築の無機質な空間にも、古民家の和の佇まいにもしっくりと馴染む。倉敷緞通の名付け親は、「民藝運動」の提唱者・柳宗悦(やなぎむねよし)。そして、意匠を考案したのは、柳の盟友で染色家の芹沢銈介(せりざわけいすけ)だ。

1901_これいいねD01**

倉敷緞通の縞模様は、人間国宝の染色家・芹沢銈介が昭和の初めにデザインしたものだ

 岡山県南部、倉敷市周辺は昔から藺草の栽培が盛んで、畳表に美しい色模様を織り込んだ花莚(むしろ)(花ござ)は、地場の特産品として有名だった。昭和の初め、花筵の製造業者だった矢吹貫一郎は、その技術を活かし、和洋折衷の建物に合う敷物を考案した。金波織(きんばおり)だ。「それが倉敷緞通の前身です。縞柄でリング糸と藺草の組み合わせは倉敷緞通と同じ。金波織を見た柳が、自ら『倉敷緞通』と名付け、図案を芹沢に依頼しました。工業化が進む時代に〝新作民藝〟として育てようとしたんでしょうね」。そう語るのは、地元で倉敷緞通の伝統を守る瀧山雄一さんだ。

1901_これいいねD02**

織機に向かう瀧山雄一さん。当初40種類くらいあった芹沢デザインのうち、現在製作しているのは7種類

 昭和30年代から40年代の最盛期には、月に300畳生産しても間に合わないほどの人気だったという倉敷緞通も、原材料の高騰や職人の高齢化などで、昭和61年(1986)に織元が製造を中止し、その伝統はいったん途切れてしまう。しかし、平成4年(1992)、地元の有志によって伝統産業復興研究会が立ち上げられ、作り手を育成することになった。そこで白羽の矢が立ったのが、当時22歳の瀧山さんだった。

 素材であるリング糸もヌキも瀧山さんが一人で作る。出来上がった素材は、もと藺草の倉庫だった建物で織機にかけられる。ぴんと張られた縦糸の間に、リング糸とヌキが交互に差し込まれ、渾身の力で筬(おさ)(金属の薄片を櫛歯のように並べた織機の付属用具)が打ち込まれていく。昔は二人一組でやっていた作業も、瀧山さんが考案した電動の仕掛けで、一人で出来るようになった。

1901_これいいねD03*

レーヨンと麻の混紡糸からつくられるリング糸は、素足に心地よい

「恥じることのないものを作っていきたい」と語る瀧山さん。日用品そのものが美しくあってほしいという、柳宗悦の理想は倉敷の地で受け継がれている。

1901_これいいねD04*

美観地区を南に下った場所にある工芸ギャラリー「工房IKUKO」。倉敷緞通も販売している

秋月康=文 佐藤佳穂=写真

ご当地◉INFORMATION
●倉敷市のプロフィール
倉敷といえば、白壁の町並みが美しい美観地区が有名だ。町並みの保存を最初に提唱したのは、大原美術館の創設者で大原財閥の総帥だった大原孫三郎の長男・總一郎。ドイツ留学中にローテンブルク市の町並みに魅せられたことがきっかけだという。美観地区には大原家ゆかりの場所がそこここに残っていて、多くの観光客で賑わっている。
●倉敷市へのアクセス
岡山駅から山陽本線で約16分、倉敷駅下車
●問い合わせ先
倉敷緞通
☎086-482-3478
http://kurashikinote.jp/
工房IKUKO
☎086-427-0067
http://www.koubou-ikuko.com/

出典:ひととき2019年1月号


最後までお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、ウェブマガジン「ほんのひととき」の運営のために大切に使わせていただきます。