心に魔物を住まわせないために|齋藤孝『図解 歎異抄』より(10)
念仏をしていると、何にもさまたげられず安らかな心で生きていける
「念仏者は無礙の一道なり」。これもたいへんすっきりとして、とても清らかな感じのする一文ですね。
「礙」とは「さまたげ」のことです。念仏をする者は、何ものにもさまたげられない、一筋の道を歩くのである。そこでは、「天神や地祇」もひれ伏して、「魔界・外道」というものも邪魔をしない。「天神や地祇」とは、天上と地上に住む善き神たちのこと。「魔界」とは、悪い魔の住む世界で、「外道」とは、仏の道に外れた者のことです。
阿弥陀仏の本願を信じて念仏すれば、善き神たちにも敬服され、悪い魔や不信心の者たちなど邪魔をするものが一切やってこない。念仏一筋の道を歩む者の前には、一切のさまたげがない、ただ一つの道がまっすぐに開かれているばかりなのです。
短い文章ですが、親鸞の信仰に対する確固とした心が表れています。念仏するおかげで、目の前にさまたげのない道が現れ、そこをなんの不安もなく歩いていけると思うと、私たちもずいぶん気が楽になりますね。
心の中に悪い魔が入ってきた、と気づいたらまず心を落ち着けよう
ところで、「魔」といっても、絵画によく描かれるような姿をした魔物が目の前に現れる、とイメージすると、これはフィクションの世界になりますが、現実の世界にも、「魔がさす」ということがありますね。心の中に魔物が入ったように、ふと、よくない考えがおきる、といったことは、よくあることです。
たとえば「あの人がいるせいで、自分は不幸なのだ」「みんな、あの人のせいでうまく行かない」などと思い込んでしまう。こうしたことは日常でも陥りがちな心境です。このような「魔」のさまたげに心が奪われていると、仕事が手につかないこともあります。それは、まったく「魔界・外道」にさまたげられ、支配されてしまったような状態です。
一方、阿弥陀仏の救いを信じて念仏をする人は、来世ではさとりが開けるという安心が得られるので、心には何のさまたげもありません。人を恨んだりする必要もなければ、怒りに飲み込まれることもない。そうした心の障害、さまたげのない、すっきりとした「無礙の一道」が開かれている状態なのです。
『歎異抄』を読むときには、「魔とか地獄なんて、あるわけないよね」などと、あまりリアルに考えないほうがよいのですね。それよりも、自分自身の心に、「いま、魔物みたいなものがやってきて、住み込んだな」と気づくセンスを養うようにするとよいでしょう。
ふだん、何かあったときには、まず心を落ち着けて、念仏をしてみて、さまたげのない、すっきりした心持ちになってみると、気を楽にして生きることができるのではないでしょうか。
『歎異抄』では、そうした教え、生きていくための知恵も得られるのですね。
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