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心に魔物を住まわせないために|齋藤孝『図解 歎異抄』より(10)

歎異抄たんにしょう』は、司馬遼太郎や吉本隆明、西田幾太郎などの知識人にも多大な影響を与えた宗教書です。中世最大の宗教者であった親鸞しんらんの生の言葉を聞いていた弟子が、親鸞没後の世界にはびこる「異説」を「なげき」、正しい言葉を伝えていこうというのが基本スタイル。時代を超えた命題を提示し、ずっと考え続けられる、奥深い魅力を持っています。古今東西の多数の名著を解読してきた齋藤孝先生の新刊図解 歎異抄から、そのエッセンスをお届けします。

図解 歎異抄』齋藤孝 著(ウェッジ)
2022年12月20日発売

<原文>
念仏者ねんぶつしゃ無礙むげ一道いちどうなり。

(第七条)

念仏をしていると、何にもさまたげられず安らかな心で生きていける

「念仏者は無礙の一道なり」。これもたいへんすっきりとして、とても清らかな感じのする一文ですね。

「礙」とは「さまたげ」のことです。念仏をする者は、何ものにもさまたげられない、一筋の道を歩くのである。そこでは、「天神や地祇じぎ」もひれ伏して、「魔界・外道げどう」というものも邪魔をしない。「天神や地祇」とは、天上と地上に住む善き神たちのこと。「魔界」とは、悪い魔の住む世界で、「外道」とは、仏の道に外れた者のことです。

阿弥陀仏の本願を信じて念仏すれば、善き神たちにも敬服され、悪い魔や不信心の者たちなど邪魔をするものが一切やってこない。念仏一筋の道を歩む者の前には、一切のさまたげがない、ただ一つの道がまっすぐに開かれているばかりなのです。

短い文章ですが、親鸞の信仰に対する確固とした心が表れています。念仏するおかげで、目の前にさまたげのない道が現れ、そこをなんの不安もなく歩いていけると思うと、私たちもずいぶん気が楽になりますね。

心の中に悪い魔が入ってきた、と気づいたらまず心を落ち着けよう

ところで、「魔」といっても、絵画によく描かれるような姿をした魔物が目の前に現れる、とイメージすると、これはフィクションの世界になりますが、現実の世界にも、「魔がさす」ということがありますね。心の中に魔物が入ったように、ふと、よくない考えがおきる、といったことは、よくあることです。

たとえば「あの人がいるせいで、自分は不幸なのだ」「みんな、あの人のせいでうまく行かない」などと思い込んでしまう。こうしたことは日常でも陥りがちな心境です。このような「魔」のさまたげに心が奪われていると、仕事が手につかないこともあります。それは、まったく「魔界・外道」にさまたげられ、支配されてしまったような状態です。

一方、阿弥陀仏の救いを信じて念仏をする人は、来世ではさとりが開けるという安心が得られるので、心には何のさまたげもありません。人を恨んだりする必要もなければ、怒りに飲み込まれることもない。そうした心の障害、さまたげのない、すっきりとした「無礙の一道」が開かれている状態なのです。

図/大野文彰

『歎異抄』を読むときには、「魔とか地獄なんて、あるわけないよね」などと、あまりリアルに考えないほうがよいのですね。それよりも、自分自身の心に、「いま、魔物みたいなものがやってきて、住み込んだな」と気づくセンスを養うようにするとよいでしょう

ふだん、何かあったときには、まず心を落ち着けて、念仏をしてみて、さまたげのない、すっきりした心持ちになってみると、気を楽にして生きることができるのではないでしょうか。

『歎異抄』では、そうした教え、生きていくための知恵も得られるのですね。

齋藤孝先生の新刊『図解 歎異抄』では、原文と抄訳を掲げたうえで、その内容を図解とともにわかりやすく解説しています。この機会に、多くの知識人に絶大な影響を与えてきた『歎異抄』の考え方や精神のあり方を吸収してみてはいかがでしょうか?

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齋藤 孝(さいとう・たかし)
明治大学文学部教授。1960 年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程を経て現職。専門は、教育学、身体論、コミュニケーション論。著書多数。新刊に『書ける人だけが手にするもの』(SB新書)、『60代の論語 人生を豊かにする100 の言葉』(祥伝社新書)がある。

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