尾張徳川家と和菓子の文化|〔特集〕名古屋──あんこの王国
江戸時代、尾張徳川家の繁栄のもと、名古屋では茶の湯文化、そして和菓子文化が育まれました。毎秋恒例の「徳川茶会」は、その歴史を物語る行事です。
名古屋の和菓子の文化は、長くこの地を治めた尾張徳川家と深くつながってきた。それを物語るのが、1935(昭和10)年に開館した、尾張徳川家伝来の大名道具を収蔵・公開する徳川美術館だ。
学芸員の加藤祥平さんによると、江戸時代、名古屋では、織部流や一尾流・有楽流などの武家流、京都から入った千家流といったさまざまな流儀のお茶が盛んだった。多くの茶人を召し抱えていた尾張徳川家では、宇治に茶壺を運び、新茶を詰めて戻る「御茶壺道中」が年中行事でもあった。その際に使われた茶壺には、織田信長が安土城落成時に献上されて、信長を「ご機嫌斜めならず」にしたという「松花」(重要文化財)も含まれた。
「茶の湯は武家の公式の行事だったので、尾張徳川家のお殿様はお茶の文化を大事にされました。名古屋市蓬左文庫には、お菓子の絵と材料が記された徳川家の見本帳があり、季節ごとに色とりどりの特別なお菓子が作られていたことがわかります。明治以降は、豪商がお茶文化のパトロン、担い手になり、有名な数寄者の屋敷の近くには、良い和菓子屋さんができました。その流れで広く庶民も茶道を楽しむようになって、たくさんのお菓子が育ったと考えられます」
茶道具については、「見せたがりの東京」、宗匠による「書付物の京都」などに対して「名古屋はきず」との言葉があった。名古屋の茶人はきずがあっても良い物を求める。目利きだという意味だ。
徳川美術館では、毎年10月から11月にかけて毎週末、茶道具の名品を用いた大茶会「徳川茶会」を開催する。
茶会に欠かせないのが、濃茶の味をより引き立てる主菓子だ。1965(昭和40)年より、この茶会に主菓子を納めているのは「両口屋是清」。尾張徳川家御用菓子製造のために召された大坂の菓子司・猿屋三郎右衛門が1634(寛永11)年に開業し、1686(貞享3)年には、二代尾張藩主・徳川光友より直筆看板を授かった老舗だ。
徳川茶会では、8月までに徳川美術館から両口屋是清に「お題」が出され、店では見本作りが始まる。主菓子は、味、茶道具とのバランス、姿かたち、色目など、さまざまな要素が考慮される。
1998(平成10)年からは主に和歌がお題になったが、去年は大河ドラマ『どうする家康』にちなんで、菓銘「玉兎」が出された。わかりやすく兎をかたどった形にするか、抽象的にするかなど、10点以上の候補から、試作を重ね、茶巾絞りの兎に決まった。
徳川茶会の主菓子を半世紀にわたって手がけた菓子職人の故・野尻吉雄さんは、全ての菓子を記録した「昭和平成之覚書」を遺した。「山路」「照葉」「菊の露」……覚書の風雅な菓銘の菓子それぞれに豊かな表現力がある。野尻さんほどのベテランでも毎年、アイデアを出すのに苦心し、ミリ単位の模様を出すため緊張の連続だったという。それは、200年以上、尾張徳川家に献上する菓子を作り続けた職人たちと同じ、誇り高き手仕事だ。特別な茶会で、今年は、どんな菓子が生まれるか。期待が高まる。
「両口屋是清 昭和平成之覚書」。歴代の徳川茶会に出された主菓子が全て記録されている
案内人=畑主税
文=ペリー荻野
写真=佐々木実佳
企画編集=久保恵子
──この続きは本誌でお読みになれます。日本全国、1000軒を超える和菓子屋さんを食べ歩く“伝説の和菓子バイヤー”畑主税さん。尾張徳川家のお膝元として茶の湯文化の伝統が育まれてきた名古屋の歴史を紐解きつつ、畑さんが太鼓判を押す、名古屋のとっておきの美味しいあんこ、和菓子店をご案内します。名古屋のあんこのもう一つの王道、豪華な「モーニング」で知られる喫茶店にも訪れ、名古屋の人が喫茶店とあんこを愛するわけに迫ります。
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出典=ひととき2024年9月号