期待に応えようと必死の20代が 今の自分の土台を作りました(俳優・竜 雷太)|わたしの20代
小学生のころ、京都府舞鶴市の映画館の支配人代理だった父に弁当を届けに行って、幕の間から、片岡千恵蔵の「多羅尾伴内」など映画をたくさん見ました。それで漠然と映画の仕事がしたいと、日本大学藝術学部映画学科の演出コースに入ったんですが、僕は映画の作り方をまったく知らなかった。友だちもできなくて、迷っていた時、ふと亡き兄が大学でボートを漕ぎたいと言っていたのを思い出し、大学のボート部に入ることにしたんです。僕の体力はこのときに培われたものです。
その後、大学の先生から「テレビタレントセンター(TTC)に行ってみないか」と勧められました。「TTC」は、当時、テレビタレントを育てようと広告代理店などが設立した養成所で、講師は美容体操家の竹腰美代子さん、狂言の7世野村万蔵さんはじめ、超一流の方々。僕はそのころから演技の道を志すようになりました。
1962年に松竹のオーディションに受かって、山田洋次監督の映画「馬鹿まるだし」に出演しました。町にダイナマイトを投げるような悪い仲間の役でね(笑)。そのとき、日本映画の研究に来ていたアメリカの演出家エド・ダンダスから、サンフランシスコのカレッジの演技コースで学ばないかと誘われたのです。当時、学生のビザは下りにくくて、持っていけるのは200ドルのみ。健康を証明するレントゲン写真を用意したり、大使館で面接を受けたり、大変でした。
1年半の留学中、皿洗いや運転手のアルバイトをしながら、英語や演劇やドラマの基礎を学びました。その間、「八月十五夜の茶屋*」の公演に出演し、出演料600ドルを頂きました。貧乏学生にはありがたい額でしたね。その後、ハリウッドへ行かないかと誘われましたが、僕はもう少し勉強する必要があると思い、学校に戻りました。
一番の思い出は、夏休み、車体とアンテナに日の丸をつけた友人のポンコツ車で40日間1万5000キロ、アメリカ一周をしたことです。サンフランシスコからルート66を通って、サンタフェ、ニューオーリンズ、ニューヨーク……。当時はヒッピー文化全盛で、学生たちはみんな髪に花をつけてました。僕らは食堂に行くときだけはスーツに着替える。そうするとまじめな留学生として歓迎されます。車で寝る毎日でしたが、楽しかった。
ラッキーなことに、26歳で帰国してすぐ、日本テレビの「これが青春だ」で新人を探しているという話がありました。アメリカから来た英語教師役で、まさに僕の経歴そのまま。プロデューサーが実績もない僕をよく主役にしてくれたと思います。生徒役もみんな元気で、20歳を超えてる人もいたから、彼らとはよく飲んだ。それで翌日は撮影で走り回るんですから、よくやったと思います(笑)。
青春ドラマから刑事ものの「東京バイパス指令」を経て、「太陽にほえろ!」の10年にたどり着きました。思い返すと、兄の「ボート」の一言で体力をつけ、先生の勧めでTTCへ行き、エドに助けられてアメリカで学び、プロデューサーの決断で主演作ができた。わらしべ長者みたいですよね。失敗や迷いも多かったけど、期待に応えようと必死になった20代があったから今がある。よき人たちに出会えた僕は幸運だったと思います。
談話構成=ペリー荻野
出典:ひととき2023年2月号
▼この連載のバックナンバーを見る
この記事が参加している募集
最後までお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、ウェブマガジン「ほんのひととき」の運営のために大切に使わせていただきます。