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良きものがいつまでも残り続ける、ひだまりのような街と鉄道(伊勢奥津・JR名松線)|終着駅に行ってきました#17

三重県の松阪から約1時間半かけて到着する伊勢いせ奥津おきつは、山あいのひだまりのような街にある終着駅。林業で賑わった時代の記憶が随所に残る街には、自分たちを取り巻くものを大切にし続ける人たちがいました。そんな彼らの思いが原動力となって、奇跡の復活を遂げた名松線めいしょうせんは、若い人たちにとっても、大切な鉄道であり続けています。
『ひととき』2024年1月号の特別企画「名松線、冬の旅」の取材で見てきた、あたたかくも力強い、これまでとこれからのお話。

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「これはいい写真だよ」

 ここはJR名松線の伊勢奥津駅。

 駅構内に貼られたポスターの前で腕組みをしていたミハラさんが、そう唸った。

「はあ、そんなもんですかねえ」

「そうだよ。下手なプロなんかよりよっぽどいい写真だよ」

 キミにはわからないのかこの写真の良さが。

 有名ラーメン店の野菜マシマシもかくやとばかりに言外の意味がたっぷり盛り込まれていることが一瞬で理解できる言い方だった。

 たぶん、僕の相槌の適当さにムッとしたのだろう。

 6年以上一緒に終着駅を巡っていると、そんな知らなくてもいい機微までツーカーで理解しあえてしまうのである。

 僕も少しムッとしつつ、ちゃんと見るべくポスターに近づいた。一隅に『名松線勝手に応援団』なるロゴが入っている、どうやら途中駅の家城いえきのそばにある白山はくさん高校の生徒たちが制作したもののようである。

「確かにいい写真ですね」

「まあ、コピーは高校生らしいけどさ」

 そりゃあ素朴でしょうけど、いいコピーじゃないですか。口を尖らせて言い返そうとしたタイミングで、ウンノさんが会話に入ってきた。

「いいポスターですよねえ。記事の中でも紹介させていただこうかな」 

 伊勢奥津には雑誌『ひととき』の取材で来ている。編集長のウンノさんも一緒の3人旅である。このメンバーで取材に出たことは今までもあったが、終着駅に来たのは初めてだ。

 年長者のウンノさんの言葉で水入りになった格好で、僕は一歩二歩、後ろに下がった。

 名松線の列車を背景に自分たちをモデルにして作られたポスターは、山あいの小さな平地に設けられた終着駅のやさしい光景に、調和していた。

* * *

 伊勢奥津には、三重県の松阪駅から約1時間半ディーゼル列車に揺られて到着した。

 昼前だったが、駅に隣接した観光案内所での取材が始まるまで時間があった。ウンノさんが事前に送ってくれた資料に目を通してはいたが、少しでも街の雰囲気を肌で感じておこうと、いったん解散して、ひとりで歩くことにした。

 駅前には空き地が点在しており、映画館や日通、郵便局、パチンコ屋などの跡地と書かれた看板が建てられている。坂道を降りて川に沿う形で走る伊勢本街道に出ると、貫禄ある家屋がずらりと並ぶ。軒先には暖簾が下げられている。地域おこしの一環として、とパンフレットには紹介されていたが、その言葉どおり、暖簾で街道全体が華やいで見える上に、それぞれの生業がわかるようになって、往年の街の繁栄ぶりが偲ばれるのである。

 奥津は、かつて伊勢と京都や大和を結ぶ伊勢本街道の宿場町として栄えた。「奥の津」という地名のとおり船着場もあり、物資の集散地としての役割を担っていたとされる。昭和に入ると林業が盛んになったことで、木材の集散地としての需要が高まる。そして1935(昭和10)年に名松線が全線開通、終着駅の街は殷賑いんしんを極めるようになる。

 ピークは昭和30年代の後半から40年代前半。1960(昭和35)年には、伊勢奥津駅のある美杉村の人口は、約16,000人に達している。合併して津市美杉みすぎ町となった現在の4倍以上である。

 そんな全盛期の名残を感じさせる街並みを通りすぎて、雲出川くもずがわにかかる宮城橋をわたり、かつて職人街だった集落に入った。

 両脇に個人の家屋が並ぶ通りを進むと、右手に大きなイチョウの木が見えてきた。立札を読むと、おんばさんなる地蔵菩薩がまつられており、そのよだれかけを百日咳の子どもにかけてやると楽になったという言い伝えがあると書かれている。

 興味を持って、茶畑の中を通り抜けていくと、祠の前で地元の人たちが集っていた。いずれも歳のころ80から90の方々である。

「ああ、邪魔しちゃったね」

 道を開けてくれた男性の口調の柔らかさに後押しされて、この街を訪問した理由をざっと話した。

「名松線に乗ってきたんですよ」

「そうかい。6年半かけて復活したのは、知ってる?」

「はい」

 名松線の途中駅、家城から伊勢奥津までの17.7kmは、2009(平成21)年10月の台風の被害で、38箇所に及ぶ大きな被害を受けた。当時、同区間の利用客は1日およそ90人。路線復旧を諦めて、バス輸送に切り替えることも検討されたが、沿線住民の「鉄道を残してほしい」という声に動かされ、三重県や津市といった自治体とJR東海が協力する形で、16(平成28)年の3月に悲願の復活を果たしている。

「家城からここまでは、緑も多くて景色すごく良かったです」

 そう答えると、だろ、と嬉しそうな顔をしてから、まあ、景色はいいんだけど人は減っているんだよなあと続けた。

「前は8つ小学校があったんだけどさ、統廃合で一つになっちゃって。生徒も50人くらいしかいないんだよ」

 子どもがいなくなったよなあ。そう言うと、周りの人たちもそうなんだよ、と相槌をうった。

* * *

「いい先生でねえ。天気のいい日には『今日は川遊びしよう』って言って、生徒より先に行っちゃうような先生でした」

 取材で、奥津と名松線の歴史を語ってくれた結城ゆうきみのるさんは、美杉地区の小学校の教員として校長までつとめ上げた人物だった。御年91歳の結城さんを「先生」と呼ぶのは、取材をサポートしてくれた駅前の観光案内交流施設「ひだまり」の責任者、竹田好代さんである。

「だって、私、先生に教わったんですもの」

 そうだったねえと笑う好々爺然とした結城さんだが、名松線が不通になった際は、地元有志が立ち上げた「名松線を守る会」の代表として、各所への陳情から署名集めまで精力的に行った。いわば復活のキーマンである。

「なんとしても残したかったんですよ」

 公共交通機関として考えれば、バスだって役割を果たすだろう。だが美杉は、鉄道があったからこそ、美杉であり続けてきた。鉄道をなくすことは、美杉をなくすことだ──。

 名松線とは、全線開通した直後、小学校入学前に乗って以来の「付き合い」があると笑う結城さんをはじめとする美杉の人たちの名松線への思いは、切実だった。

* * *

この日の列車の賑わいが、いつまでも、いつまでも続きますように……

 名松線の復活の日の記念式典などをレポートした『美杉だより』(平成28年5月1日 第73号 美杉総合支所発行)には、そんなコピーが大きく載せられている。

「先生が教えていらした頃は、一つの小学校に500人くらいの生徒がいたと思うんですけどね」

 おんばさまでのやり取りを話すと、ここでも少子高齢化が話題になった。 

 津市が公表する資料によると、美杉地区は2010(平成22)年時点で、全人口の中で14歳以下の割合は4.9%で、19(令和元)年における日本の平均12.7%を大きく下回る。さらに65歳以上の割合は50.8%で限界集落化もしている。

 昭和後期の林業の衰退が、この過疎化を招いた主たる原因であろう。時代の流れであり、致し方ないと言えばそれまでである。だが、その状況を受け止めつつ、なおも地域活性化を試みる人も多い。その代表として伺った中川雄貴ゆうきさんのお話は「人こそが美杉最大の財産」という思いに立脚したもので、ビジネスにとどまらない温かみを感じさせるものだった。

「名松線は毎日乗っていても、ちょっとした旅気分を味わえるんですよ。僕自身、学生時代に乗っていましたけど」

 数々の試みをひと通り語ってくれた40歳で宿泊施設・美杉リゾートの代表を務める中川さんがそう話すと、竹田さんが話を継いだ。

「私は、中学から寮に入ったから、通学では使っていないのよねえ」

 でもね、と続けた。

「松阪にはデパートがあって、名松線に乗って連れて行ってもらったの。年に1回かそこらなんだけど、もう嬉しくて嬉しくて。名松線は、私をワクワクさせてくれる夢の列車だったのよ」

 美杉の人たちは話好きである。たちまち周りにいた人たちも交えての「名松線思い出話」に花が咲いた。

「俺が子どもの頃だけどさ、乗り遅れそうになって走っていると、出発を待ってくれたりして」

「そうそう、俺もあった」

「名松線があるから、松阪の学校だったら下宿せずに通えたしね」

「白山高校に通う子も多かったねえ」

「今もいるでしょ、少なくはなったけど」

 ひとしきり話が出たところで、ふと沈黙が訪れた。

「やっぱり美杉の人たちにとって、名松線は子どもの頃から使ってきた大切なものだし、次の世代にもちゃんと残しておきたいって思っているんですよ」

 皆の思いをまとめるかのように竹田さんが言った。

* * *

「渋谷にもいたし、ソウルにもいた。俺の子ども時代は、引越し続きだったから、生まれ育った故郷って、ないんだよ」

 ミハラさんはそう言うと、ジョッキに残ったビールをぐいっと飲み干して、間髪入れず店員を呼び止め、元気よくおかわりを注文した。

 その日は、三重県の県庁所在地、津のホテルに泊まった。荷物を置くのもそこそこに駅前の居酒屋に3人で入った。

 お疲れさまの乾杯をして、温かいものを食べていると、1日の疲れがじんわりとほぐれていった。ビールが美味しい店のようで、ミハラさんとウンノさんはぐいぐいとジョッキを空けていく。こちらは烏龍茶だが、一緒に飲む相手がほろ酔い加減になっていくだけで、十分に楽しい気分になるのである。

 伊勢奥津で聞いてきた話のこともあったのだろうか、僕たちの話題も「子ども」にまつわる話が中心となった。おのおのの子息についての近況報告にはじまり、いつしか自分たちの子ども時代の振り返りになっていった。

 僕たち3人はいずれも公務員の父親を持ち、団地で育ったという共通点を持っていた。

「桜丘の裏手に公務員宿舎があったんだよ。少し行ったところに駄菓子屋なんかもあってね」

「僕は、団地で高校まで過ごしたんですけど、そこ、再開発でなくなっちゃったんですよ。そういった意味では僕も故郷がなくなっちゃいました」

「私も育った団地には随分行っていないけど、あの建物、もうないだろうなあ」

 一人が語ると、それに相槌を打ちながら、もう一人が語り出す。行儀良く、でも尽きることなく続く思い出話は、それぞれの今はなき故郷の様子が目に浮かぶような「実感」が滲み出ていて、しみじみとした味わいがあった。

「俺たち、今日会った人たちとはまるで違うよなあ」

 ミハラさんが、つぶやいた。

「うらやましいね」

 そうですね、と僕は心の中で相槌を打った。

 もちろん、自らを作り上げてきたものや人への敬意は持っているつもりだ。だが、終の住処的なものには興味がないし、生まれ育った場所がなくなったことに対してさしたる感慨もない。

 そんな僕とは異なり、美杉の人たちは実体のある「故郷」を持っていた。そして、それを構成する鉄道や街並みといった要素一つひとつに愛着を持ち、それらを残したいという確固たる意志を持っていた。

 いつか消えていくことを受け入れながらも、今あるものを大切にする。

 この6年、ミハラさんとめぐってきたあらゆる終着駅で、形あるものかのごとくなぞってきた人々の思いだ。

 そんな共通する思いを原動力として、我々の終着駅めぐりと同じ年月をかけ、名松線復活という偉業を実現させた伊勢奥津の人たちの話は、寂しさという通奏低音と不思議なほどの調和を見せながら力強い希望の旋律が奏でられていた。

「竹田さん、名松線のことを『自分たちを色々なものと繋げてくれているものだ』って話されてましたね」

 今度はウンノさんが、つぶやいた。

「だから、名松線がなくなることが、自分たちの住む街がなくなることと同義なんでしょうね」

 ミハラさんが相槌を打って、今日撮影した美しい風景の数々について語り出した。その話を聞きながら、これから5年、10年経ったときに、今まで巡った終着駅のある街はどうなっているだろう、という思いが、頭に浮かんできた。

「消えていくところもあるかもしれない。でもさ、俺たちは今あるいい場所を記録していくだけなんだよな。自分たちのやり方で」

 ミハラさんが不意にそう言った。

 考えていたことを口にしていたか、と思ったが、そんなはずはなかった。ミハラさんは、僕の心の微妙な動きを読み取り、僕の懸念に対し、創作者としての姿勢を的確に語っていた。

 合気道の達人のごとき超絶技を当たり前のように披露したミハラさんは、僕の驚いた顔に気づく様子もなく、小腹がすいたなあ、追加で頼んでいいかな、とメニュー表を鋭く検討しはじめた。

 すごいんだか、ただの天然なんだか。判然としない。

 そう思った瞬間、昼前のミハラさんの声が脳裏に蘇ってきた。

 キミにはわからないのか。

 その通りである。僕は結局、6年経ってもミハラさんのことを何もわかっていないのである。

 思わずついたため息が耳に入ったのだろうか、ウンノさんが笑いながら、ハットリさんも何か頼みませんか、と声をかけてきた。

* * *

 翌日は日曜日である。伊勢奥津駅の周辺で追加取材をしてから、クルマで名張まで足を伸ばした。

 名松線は、もともとは松阪から奈良県の桜井までを結ぶ路線、桜松線として計画されたが、途中で三重県の名張なばりまでに変更された。名松線となって、ひとまず伊勢奥津までの工事が進められたが、その最中の1930(昭和5年)に、名張を経由して関西と伊勢を結ぶ参宮さんぐう急行電鉄(現在の近畿日本鉄道大阪線)が先に開通してしまった。そのあおりを受けて、伊勢奥津から名張までは計画見合わせとなった。

 伊勢奥津のある美杉の人々にとっては念願の鉄道だったが、来るはずの鉄道が来なくなった奈良県側の人たちは大いに落胆したらしい。『美杉村史』によると、名張延伸のデモンストレーションとして、有志たちが自転車で美杉村までやってきて気勢をあげたりもしたという。だが戦争の色が濃くなるにつれて、延伸の機運も下火となり、いつしかたち消えになってしまった。

 そんな経緯を知った上で走る道中は、峠越えこそ幅も狭く急カーブが続いたが、全体的にはスムーズで、あっけなく近鉄の名張駅前に到着した。

 時代の移り変わりを感じつつ降り立った駅前は、休日ならではの力の抜けた空気が流れていた。人通りも少なめだが、近鉄の列車がホームに入ってくると、ややあって部活や塾への行き帰りと思しき高校生たちが降りてきて、途端に賑やかになる。

「家城も高校生で賑やかだったね。伊勢奥津に向かう列車に乗った子もいた」

 平和な光景をぼんやりと眺めていると、いつの間にかミハラさんが横に立っていた。

「ああ、一人だけいましたね」

 昨日、始発駅の松阪から乗った名松線の単行列車は、山裾に広がる集落にある家城駅に到着すると、対向列車と交換するべく小休止をした。

 ホームに降りて、アナログ式の通行標であるスタフを交換している駅員と運転士を観察していると、白山高校の生徒たちが何人かホームに入ってきた。

 土曜日の昼前だったから、補習か部活の朝練の帰りなのだろう。ほとんどの生徒たちが、松阪行きに乗り込んでいった。初々しいカップルが照れくさそうに並んで座る姿を窓越しに見て、ほのぼのとした心持ちになっていると、一人の女生徒が、我々の乗る伊勢奥津行きに乗り込んできた。

 発車してからは、山あいを走るダイナミックな車窓に気を取られていたから、彼女がどこで降りたかはわからなかった。だが、伊勢奥津駅前の「ひだまり」の皆が語っていたように、今も名松線が学生たちの足としてなくてはならない存在であり続けていることは、間違いのないことだった。

「あのポスターの写真、すごくいいと思うんだよな」

 お揃いの大きなバックをぶら下げてふざけ合っている男子高校生たちを見ながら、ミハラさんがつぶやいた。

「自分たちの周りにあるものの良さを、素直に伝えていますものね」

「うん、そのいいところをいいところだよって伝えることも、俺たちのやるべきことだと思うんだよ」

 ミハラさんの言葉を聞きながら、教育者だった結城さんが、名松線や街並みを残そうと尽力している姿を思い起こした。

 残すという行為は、結局、良きものを伝えたいという純粋な思いに集約されるのだろう。言うまでもなく、取捨選択は渡された者たちがやればいいことだ。そして、白山高校の生徒たちは、次代に託そうとそれらを守り続けてきた人たちと同じように、彼らを取り巻くものを、大事なものとして選び取ったのである。

 そこに必要以上の言葉はなかったはずだ。

 だったら、外野の僕たちができることは、彼らが形にした良きものを素直に褒めることなのだろう。

「コピーも素朴だけど、心がこもっていると思うんですよ。カップルがもう少し一緒にいたいって言っているのなんて、昨日見た子たちそのものでしょ」

 話しているうちに、ああ、俺もあんな青春送りたかったと悲しい気持ちになった僕の暗い表情には気づかずに、ミハラさんは、だよなあと明るく笑いながら、もう昼か、お腹すいたねえ、と周りを見渡した。

「そこに美味しそうなお店ありましたよ」

 いつの間にかそばに来ていたウンノさんはそう言うと、やっぱり、ポスターも紹介しましょう。白山高校に問い合わせてみます、と続けた。

 人と人が、言葉や世代、あらゆる境界を超えて、繋がっていく。

 伊勢奥津にやってくる鉄道は、そんな大小の奇跡を、いくつも、いくつも作り出してきたのだろう。

 その圧倒的な積み重ねに、思わずため息が出た。見計らったようなタイミングで、名張駅に次の電車が滑り込んできた。

文=服部夏生 写真=三原久明

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服部夏生
1973年生まれ。名古屋生まれの名古屋育ち。近所を走っていた名鉄瀬戸線・通称瀬戸電に、1歳児の頃から興味を示したことをきっかけに「鉄」の道まっしぐら。父親から一眼レフを譲り受けて、撮り鉄少年になるも、あまりの才能のなさに打ちのめされ、いつしかカメラを置く。紆余曲折を経て大人になり、大学卒業後、出版社勤務。専門誌やムック本の編集長を兼任したのち独立。同じ「鉄」つながりで、全国の鍛冶屋を訪ねた『打刃物職人』(三原久明と共著・ワールドフォトプレス)、刀匠の技と心に迫った『日本刀 神が宿る武器』(共著・日経BP)といった著作を持つ。「編集者&ライター。ときどき作家」として、あらゆる分野の「いいもの」を、文字を通して紹介する日々。「本州」で泊まったことのない県がひとつだけ残っていて、なんとか機会を作ろうと画策中。

三原久明
1965年生まれ。幼少の頃いつも乗っていた京王特急の速さに魅了され、鉄道好きに。紆余曲折を経て大人になり、フリーランスの写真家に。95年に京都で撮影した「樹」の作品がBBCの自然写真コンテストに入賞。世界十数か国で作品展示された結果、数多くのオファーが舞い込む。一瞬自分を見失いかけるが「俺、特に自然好きじゃない」と気づき、大物ネイチャーフォトグラファーになるチャンスをみすみす逃す。以後、持ち味の「ドキュメンタリー」に力を入れ、延べ半年に亘りチベットを取材した『スピティの谷へ』(新潮社)を共著で上梓する。「鉄」は公にしていなかったが、ある編集者に見抜かれ、某誌でSLの復活運転の撮影を請け負うことに。その際の写真が、数多の鉄道写真家を差し置いて、教科書に掲載された実績も。趣味は写真を撮らない乗り鉄。日本写真家協会会員。

※この記事は2023年11月に取材されたものです。

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