仏教と建築、いけばなに通じる“量子的”思考|笹岡隆甫 花の道しるべ from 京都
昨年8月、世界遺産・仁和寺に、建築家の山口隆さんが手がけた期間限定の茶室が展示された。細く割いた竹を楕円形にして幾重にも組み合わせた、奥行5mのトンネル状の空間だ。五重塔を背景にした抜群のロケーション、灯りが点された夜の風情は格別だった。
SNSで拝見して会期中にお邪魔したいと考えていたところ、ご本人から「花をいけてほしい」と連絡をいただいた。しかし、その時点で、茶室の展示は残り1週間。公開いけこみという案も出たが、告知が間に合いそうにない。そこで新聞各社に取材依頼をして、紙面で紹介していただくことになった。日中は暑さが厳しく、花もあっという間に萎れてしまうので、いけこみは午後5時の閉門後に行うことにした。
竹で作られた茶室は、すべてのものを受け止めるような柔軟性のある建築。硬いコンクリートの塊とは対照的だ。近年、山口さんがテーマとされているのは、建築が知性を持った粒子となって、部分と全体が呼応しながら破壊・生成する「量子的生成」。この概念はやや難解だが、「量子的」というのは、きわめて日本的な考え方ではないだろうか。
以前、築地本願寺の木村共宏副宗務長に、「量子のふるまいが、仏教の空の思想に通じる」という話をうかがった。量子は、波と粒子、両方の性質を持っており、観測するまではそこに存在するかどうか分からない。あるようでなく、ないようである。量子論が生まれる遥か昔から、量子のふるまいを予言するかのような思想を持っていた宗教は仏教だけであり、量子論の研究者は、仏教に畏敬の念を抱いているという。
実は、これによく似た話が、いけばなにもある。「虚実」という考え方だ。
いけばなでは草木の花や葉をすかし、枝を矯めて形を繕う。このように、切ったり曲げたりするのは自然の姿を損なうのではないかという疑問に対して、我々はこう答える。美の基準は一つではない。ありのままの草木の姿は確かに美しいが、ありのまま以外は許容できないというのは、あまりにも頑なではないか、と。
これを虚実で説明すると、こうだ。いけばなでは、虚実をバランスよく備える「虚実等分」がよしとされる。「実」は、草木の出生、つまりあるがままの自然。「虚」は、不要な花や葉を取り除き、枝を矯めて姿をととのえること。どちらか一方に偏ってはならず、虚実の両極を備えよ、というわけだ。
伝書には、より詳しい説明もある。自然の草木は確かに「実」であるが、汚れたり曲がったりして(「地気の濁り」と呼ぶ)、真の美しさが覆い隠されている場合も多い。また、地面から切り離された時点で自然ではないので「虚」である、とも言える。そこで、「花矩」と呼ばれる型(未生流の場合は|鱗形、つまり直角二等辺三角形)を用いて、花の姿を矯正する。花矩は、実体がないので「虚」であるが、宇宙の姿を象徴する(天地人の役枝で構成される)という意味では「実」でもある。「虚」である切り花は、実である花矩におさめることによって「実」に戻る。少し理解しづらい所もあるが、注目すべきは、虚実は変幻自在に入れ替わるということ。あるようでなく、ないようである。まさに量子の世界だ。
さて、仁和寺の作品。茶室の正面に、直方体の焼き物を置き、茶室全体を花器に見立てた。花には「二季の通い」を備えた。サルスベリ・ハス・サルトリイバラに夏の終わりを、オミナエシ、ナナカマド、ヤマシャクヤクに秋の気配を託した。もちろん虚実等分を心掛けて。
わずか数時間だけの、建築と花の邂逅。生花を用いるいけばなは、萎れ、朽ちるのが運命でもある。生と死、美と醜も、変幻自在に入れ替わる。刹那の美をどう捉え、表現するのか。期待、興奮、そして葛藤。花と対峙する華道家の眼差しは、昔も今も変わらない。
文・写真=笹岡隆甫
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