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実業家として500以上の企業を創設した渋沢栄一|大河ドラマ主人公・「日本近代化の父」の素顔に迫る(4)

文・ウェッジ書籍編集室

まだまだコロナ禍の完全な終息には至っていない日本。そんな状況下のいま、100年以上も前に刊行された1冊の本に注目が集まっています。大正5年(1916)に刊行された『論語と算盤』です。
著者は官と民の両方の立場から日本の発展に寄与したことで知られる渋沢栄一。2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもあり、2024年から流通する新一万円札の図柄になることが決定しています。
幕末から昭和初期にかけて500以上の企業の設立にかかわり、600以上の教育・社会事業に携わったとされる渋沢ですが、なぜこれほどの業績を成し遂げることができたのでしょうか?
ここでは栄一の玄孫(5代目)にあたり、コモンズ投信の創業者・会長で、「論語と算盤」経営塾を主宰する渋澤健氏による監訳本の超約版 論語と算盤(ウェッジ刊、2021年1月16日発売)から、栄一の言葉を引用しながら、前回に続き、激動の生涯を写真とともに振り返ってみます。今回は大蔵省退職後、実業家として活躍した壮年期に焦点を当てます。

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「第一国立銀行」の創設

利益を求めるということと、仁義道徳という道理を重んずることの二つをうまく並び立てることによって初めて、国家は健全に発展し、個々人もみなふさわしい立場を得て、真実の富が蓄積されていくのである。私がつねに望んでいるのは、人は、利益を求める欲望をつねにもたねばならないということだ。しかしその欲望は、道理に従って発揮させるようにしたい。この道理というのは、仁義と徳が調和するものである。
(「真正の利殖法」より現代語抄訳)

 大蔵省を退官した栄一は、富国強兵や殖産興業を掲げていた明治政府の近代化政策をうけて、商工業の発展に力を注ぎます。明治6年(1873)、アメリカの銀行法を参考にした国立銀行条例に基づき、三井組と小野組の合同で「第一国立銀行(現在のみずほ銀行)」を設立します。

①第一国立銀行(国会図書館)

第一国立銀行。民間による株式会社であるが、国立銀行条例により発券機能を有していた。

 当初は三井組だけの出資で銀行がつくられる予定でしたが、『立合略則』のなかで「合本(がっぽん)組織」の実現を求めていた栄一の強い希望で小野組も加えることになり、それぞれの組から頭取や取締役を就けることになります。栄一は33歳で総監役に就き、両者の利害を調整する役割を担います。

 ちなみに、第一国立銀行は「国立」と名前に付くとはいえ、アメリカの銀行制度を参考にした民間銀行になります。栄一は当初「bank」の訳語として「金行」を考えていたようです。ところが、三井組と小野組から「業務の中には銀の扱いも含まれる」という指摘があり、「銀行」になったという説があります。

 いずれにせよ栄一は、第一国立銀行はあくまでも国立銀行条例に基づく民間の銀行であり、「合本主義」を貫くことで特定の資本家に独占されないようにしたのでした。さらに近代的な「銀行」を創設することで、日本の金融制度の安定化を図ろうとしたのでした。

 ところが、当時は江戸時代以来の両替商の存在や役割も大きく、西洋流の「銀行」の信用と存在感を高めていくことは困難を極めます。そこで栄一は新規取引先を開拓し、人材の育成に努め、自ら頭取に就任します。

 また、同じ頃に、第一国立銀行の出資を受ける抄紙会社(現在の王子製紙、日本製紙)の創業にも関わります。民部省時代に外国人技師から洋紙の普及の必要性を思い知らされ、これから大量印刷による新聞・雑誌の時代が来ることを見越してのことでした。

500社以上の創設に関わり、実業界の発展に尽くす

社会の進歩と共に秩序が整ってくるのは当然のことだが、それと共に新しい活動は始めにくくなり、自然と保守に傾くようになる。間違いや失敗を恐れてためらうような気力の弱さでは、結局、国の勢いを衰えさせてしまう。この点をよく考え、おおいに計画し、成長を遂げ、真の価値ある一等国とならなければならない。溌剌とした進取の気力を養い、それを発揮しなければならないと痛感している。
(「細心にして大胆なれ」より現代語抄訳)

 当時、日本の綿糸生産は安価で良質な輸入品に圧迫された状態でした。そこで明治15年(1882)には、大阪に近代設備を兼ね備えた「大阪紡績会社(現在の東洋紡)」を設立します。

 また、当時の日本ではまだまだ鉄道網が発達しておらず、敷設されていない地方では、海運が主な輸送手段でした。安全性で問題のあった海運を担保する必要性を痛感していた栄一は、周囲の反対を受けながらも、第一国立銀行内で保険業務を開始します。そして、明治12年(1879)には「東京海上保険会社(現在の東京海上日動)」を設立します。

 栄一の関与した事業はさまざまな分野にわたり、ほかにも次のような会社の設立に関与しています。

・札幌麦酒会社(現在のサッポロビール)
・共同運輸会社(現在の日本郵船)
・有限責任東京ホテル(現在の帝国ホテル)
・田園都市株式会社(現在の東急電鉄、東急不動産)
・東京株式取引所(現在の東京証券取引所)

 このように日本の近代化を進めていくうえで、産業の振興につとめていった栄一ですが、同時に、東京商法会議所(現在の東京商工会議所)や東京商工会などの会頭を歴任し、実業界の発展にも尽力します。

②帝国ホテル(国会図書館)

帝国ホテル。明治23年(1890)、鹿鳴館の隣に建設され、のちに渋沢は会長に就任。

③東京ガス(国会図書館)

東京瓦斯。東京瓦斯局の払い下げを受け、明治18年(1885)に渋沢栄一と大倉喜八郎が設立。

600近い教育・慈善事業にも携わる

総じて、文明の進歩というのは、政治、経済、軍事、商工業などが残らず進んで、初めて見ることができるものだ。それなのに、日本ではその一大要素である商工業が、久しく顧みられなかった。最近は実業教育に注意する人が出てきて進歩が見えるが、惜しいかな、その教育の方法は理知の一方にのみ傾き、規律であるとか、人格であるとか、徳義であるとかということは、少しも顧みられない。
(「理論より実際」より現代語抄訳)

 500近い起業を行う一方で、栄一には社会事業家としての顔があります。東京の貧窮者の保護施設として設立された東京市養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)の運営にも携わります。また、多くの人が医療を受けられるよう、聖路加国際病院や済生会への多額の寄付も行います。

 教育分野では、数多くの教育機関の設立・運営・寄付にも携わります。明治8年(1875)には森有礼(もりありのり)にかわり「商法講習所(現在の一橋大学)」の経営に携わります。

 ちなみに、のちに東京高等商業学校と改称した同校は、明治42年(1909)に、文部省により東京帝国大学に吸収される案が出されます。学校の存続をめぐり、教員からは辞職者が出て、在学生も総退学を決議します。当時、東京高等商業学校議員であった栄一は、文部省と学校の間に入り調停を行っています。

 また、「士魂商才」を理念とし、大倉商業学校(現在の東京経済大学)、京華商業学校(現在の京華商業高校)をはじめ、次のような教育機関の設立・運営・寄付などに携わります。

 ・日本女子大学校(現在の日本女子大学):創立委員、第3代校長
 ・東京女学館:第5代館長
 ・高千穂学校(現在の高千穂大学):評議員
 ・同志社大学:寄付
 ・国士舘:寄付
 ・二松学舎:会長、理事

 商売にも学問が不可欠と考えていた栄一は、数多くの教育機関の設立・運営・寄付を通して、後進の人材育成のために尽力したのでした。

④如水会館

如水会館。東京帝国大学への吸収に抗議した東京高等商業学校の学生たちの結束を図るため「如水会」を創設。会の命名者は渋沢栄一。

――渋沢栄一の成功哲学については、超約版 論語と算盤(2021年1月16日発売、ウェッジ刊)の中で、監訳者であり玄孫である渋澤健氏によるコメント付きでわかりやすく解説しています。ただいま全国主要書店(ネット書店)で発売中です。


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