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【洞川温泉】かくも良き、レトロ温泉郷|奈良、ととのうお湯めぐり

数々の世界文化遺産で知られる奈良は、洞川どろがわ十津とつかわ、奥吉野など、穴場の名湯が勢ぞろいする温泉県でもあります。こうした山深い場所にある湯宿は、古来、修験者や熊野詣での旅人を清め、癒やしてきました。奈良とお湯のホットな関係について、奈良女子大学、関西学院大学などで非常勤講師を務める樽井由紀さんに綴っていただきました。(ひととき2024年1月号特集「奈良、ととのうお湯めぐり」より)

湯の語源はであると言われている。斎は神聖であること、清浄であること、という意味を持つ。湯は身体を清潔にすると同時に罪、けがれを洗い清めるためのものであり、宗教性を帯び、古くから信仰と結びついている。奈良にも信仰と深く結びついた温泉がある。世界遺産に登録された地域にある吉野郡天川村の洞川温泉である。

洞川の朝、町の中心を流れる山上川の向こうに、山霧が立ちのぼる

 天川村は奈良県中央部のやや南に位置し、洞川地区はその東の端にある。標高約820メートルの高地で村の東に大峯山系が連なる。山上ヶ岳や弥山は霊山として信仰の対象とされており、古くから山伏の山岳修行の場となってきた。その麓にある洞川は大峯修験の地として栄えた場所である。修験道は、役行者を祖と仰ぐ日本の佛教の一派で、山岳信仰に基づくものだ。山上ヶ岳は現在もなお女人禁制を伝統としており、登山口には女人結界の門がある。女性はこの門より先へは進むことが許されない。もともと山は僧侶や行者の修行の場であり、清浄な場と考えられたので、女性の月経や出産による出血は穢れとして嫌われ女性の入山は禁じられてきた。全国の山に女人結界は見られたが、明治の初めに政府が解除を命じ、現在は山上ヶ岳のほか2カ所に残るのみだ。このような聖なる山の麓に湧くのが洞川温泉である。町の中央に流れる山上川のはんに湧いたこの温泉、意外なことに開湯は1980年代と比較的近年だが、大峯山を目指した修験者に思いをはせつつ湯に浸かり、ゆったりと癒やされてみてはいかがだろうか。温泉は無色透明のアルカリ性温泉。神経痛、関節痛、冷え性、慢性消化器病などに効果がある。また、皮脂を溶かして角質層を柔らかくし、お肌をつるつるにする働きを持つ「美人の湯」でもある。

イラスト=菅原さこ

♨日本温泉医学の父、
ベルツにも勧めたい温泉

 明治の初めに東京医学校の教師としてドイツから来日したE・V・ベルツは日本の温泉を高く評価し、『日本鉱泉論』(1880年刊)に温泉地の改良策を次のように提示している。まず温泉の浴用・飲泉の他に気候療法の大切さを訴え、大都会の人々にとって清く鮮やかな空気を吸収すること、次に新鮮な食材により栄養を摂ることを勧めた上で、最後に散歩の重要性を謳っている。そのすべてを満たしているといえるのが洞川温泉なのだ。

 紀伊半島のほぼ中央に位置するここ洞川温泉には、まず緑深い山の風景がふんだんにあり、木々が生み出す新鮮な空気に満ち溢れている。何度も大きく深呼吸したくなる空気は、瓶に詰めて持ち帰りたいほどだ。もちろん散歩に適した場所もふんだんにある。そして豊富な食材。清らかで澄んだ川の水で育ったアマゴの塩焼き、鮎の塩焼き、ニジマスの唐揚げといった都会では出会えない食べ物に溢れている。ぼたん鍋、鴨鍋もたまらない。さらに、健康維持の基本に位置するといえるのは水であるが、洞川には環境省の「名水百選」に選ばれた湧水群、「ごろごろ水・神泉洞・泉の森」がある。ごろごろ水は山上川の左岸、あとのふたつは右岸にある。この霊水を求め、神戸・大阪方面からも多くの人が訪ねてくるほどの人気だ。

冬の洞川のお楽しみのひとつ、新鮮な猪肉を使ったぼたん鍋。温泉で体をゆるめたら、地産の美味に舌鼓を打ちたい

 では肝心の温泉はどのように利用すればよいのだろうか。先人の智慧をたずねるなら、江戸時代の旅の指南書『旅行用心集』はまず、1日に3〜4回入ることを推奨している。現代なら、早めに到着してすぐ汗を流し、寝る前や翌日の早朝に入り、チェックアウトの前にもう1回という感じだろうか。ただし、高齢者、体の弱い人は加減するようにとの添え書きもある。良い温泉かどうかの見分け方も教えてくれている。1〜2回入った後、お腹が空いて食べ物が美味しい場合は、病気に効く温泉だと思えばよいとのことだ。洞川温泉は間違いなくこの条件を満たすだろう。

♨ドイツの万国鉱泉博覧会で
 紹介された十津川の温泉

 最後にふれておきたいのは十津川である。1881(明治14)年にドイツのフランクフルトで温泉の博覧会があった。欧米に日本の温泉を紹介するために、日本も出品することになり、政府が各府県に温泉の泉質・位置状況・浴客数・発見年などを調査したのだが、それをまとめたのが1886(明治19)年出版の『日本鉱泉誌』上中下3巻である。

 この中に奈良県の十津川村のしお温泉が紹介されている。当時、奈良県は大阪府の管轄であったため、大阪府大和国として掲載された。先に挙げた江戸時代の『旅行用心集』にも「【大和】武蔵、塩の葉」という同村の温泉の名が見える。2004(平成16)年に日本で初めて「源泉掛け流し宣言」を行った十津川村の温泉。古くから知られたこの名湯もぜひ訪れていただきたいものだ。

文=樽井由紀 写真=佐々木実佳

──穴場の名湯が勢ぞろいする温泉県、奈良にある湯宿は、古来、修験者や熊野詣の旅人を清め、癒やしてきました。また、東大寺や法華寺といった古刹には僧侶の沐浴や庶民救済のための入浴施設として使われてきた歴史があります。本誌では、洞川温泉や古刹をめぐります。温泉街を歩き、名湯につかりながら、かつてここにいた人々に思いをはせる──。レトロ温泉郷での旅をぜひお楽しみください!

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<目次>
[その一] 山にともる湯宿の灯
レトロ温泉郷、洞川へ
[コラム] かくも良き、奈良の温泉(文=樽井由紀)
[その二] 心を洗うお湯
名刹の浴室とは
もっと入りたい! 奈良、癒やしのお湯

洞川温泉へのアクセス
近鉄奈良駅から下市口駅まで約1時間35分(大和西大寺駅・橿原神宮駅で乗り換え)、下市口駅から奈良交通バス(洞川温泉行)で約1時間10分、終点「洞川温泉」下車

樽井由紀(たるい・ゆき)
奈良女子大学・関西学院大学・佛教大学・嵯峨美術大学等非常勤講師。日本温泉地域学会幹事。温泉を観光学や民俗学の視点からとらえ、その魅力を発信している。共著に『伝えたい知りたい21の京都ばなし』(KLK新書)、『続・大学的奈良ガイド』(昭和堂)など。

出典:ひととき2024年1月号


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