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新MiUra風土記

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この連載では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。
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#旅のフォトアルバム

盗人狩とキリシタン灯篭の湊|新MiUra風土記

地名に惹かれ訪ねた旅がある。その町も土地のことも知らない『地球の歩き方』やインターネットも無い時代だ。 欧州ならウルビーノ、シラクサ、ロードス。中東はアカバ、ジェリコ、ヤッフォ、アレッポ、ディヤルバクル、アレクサンドリア。アジアは大理、カシュガル、基隆、ホイアン、クチン。北米はケチカン、キャンベルリバー、ポートランドか。そこは日本人には馴染みのない場所だったかもしれない。 ここ三浦にも地図で見つけたそんな地名がある。それが盗人狩だった。黒澤明の映画『隠し砦の三悪人』や五社

藤沢宿の飯盛女と「小鳥の街」|新MiUra風土記

 知ったようでいて知らない町が藤沢だった。  人口の減少がつづく三浦半島の玄関口、藤沢市は増加中で県内の第4位。そして藤沢駅—大船駅間にJR東海道線の新駅ができるという(藤沢域2032年頃)。いま何が藤沢に人を呼んでいるのだろうか?    藤沢はこの東海道線が町の中心部を南北に分け、南は鵠沼や辻堂の湘南ビーチで、あの江の島も藤沢市だ。駅南口にはJRに小田急江ノ島線と江ノ島電鉄の駅舎が集まり、観光客もいて賑わっている。  僕が知るのは、冴えない時代の駅北口だった。藤沢のほん

追浜、トンネルを抜けると海鷲の記憶が|新MiUra風土記

 トンネルだらけの町、横須賀。  鉄道も道路も険阻な山をつらぬき谷戸と湊をつないでくれる隧道。なかでも北端の追浜にはそれがいちばん多く隧道めぐりが町おこしになるという。*  明治以来のタイムトンネルを抜けるとそこは昭和20年以前の追浜だった。改札口をでるとDOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA の蒼い文字が目についた。横浜DeNAベイスターズだ。DOCKは船渠。艦船を造り、修復し再船出させる。近代造船発祥の地の横須賀らしい。追浜には横須賀スタジアムと改名した球

いざ鎌倉!消えた白山道をたどる|新MiUra風土記

 金沢八景駅の風通しがよくなってきた。  駅前は拡幅されて、京急本線と逗子線の駅は新交通システムの金沢シーサイドラインの駅舎と立体的に結ばれて、より利便になったものだ。  周辺の再開発も進み、復元工事がつづいた駅裏にある江戸期の茅葺屋根の旧木村家住宅と金沢八景権現山公園も完成して、この四月に公開されたばかり。この山上には平潟湾からの浜風も届いていた。  横浜市最南端の金沢区はかつて六浦荘と呼ばれた。  干拓された今の地形は、かつて内海、湾と入江と川に侵食された海岸線で

葉山コーストパス|新MiUra風土記

 知り慣れたはずの海町を、視点をかえて歩いてみたら、もうひとつの葉山が見える。 「きょう逗子の駅で天皇陛下を見たよ!!」と興奮ぎみで話したのは大正生まれの母だった。それは昭和40年中頃のこと。当時、天皇が葉山の御用邸へ出かけるのは、原宿駅からお召し列車で逗子へ。その駅頭からは御料車で葉山の一色に向かうと聞いていた。  母が駅で出待ちしていたのか、ただの偶然だったのかは分からない。  母が昭和天皇に拝謁するのは2度目だったが、敗戦をはさんで逗子で天皇と再会したときの気分は

横須賀、花見の長官舎と看板建築の街|新MiUra風土記

この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第6回は、三浦半島を東西にまたがる横須賀市の東側をめぐります。  横須賀の町は坂と谷戸と丘陵でできている。港の周縁はほとんどが埋立地で、人は日々、坂の上り下りを宿命づけられている。  市の中心街(東京湾側)は坂の下で、かつての行政・公共施設や老舗商店街がある坂の上は町名どおり上町と呼ばれてきた。  季節は

「三浦ガンダーラ」の新世紀巡礼|新MiUra風土記

この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第5回は、三浦半島の北部・鷹取山をめぐります。  はじめに石ありきだった。  神武寺と鷹取山。逗子市と横須賀市をまたぐ霊場と聖地。 鷹取山頂上から、東京湾  三浦半島の北に位置するこの山稜からは、明治から昭和にかけて、池子石や鷹取石と呼ばれる良質の建築石材が切り出されていた。関東大震災で千葉の房州石や栃

観音崎要塞めぐり|新MiUra風土記

灯台と砲台 いつも三浦半島の観音崎を眺めている。  僕のマンション(横浜市)の階段の踊り場からは、南に横須賀市が望め、その背後には千葉県の房総半島が重なる。そのすき間が東京湾の浦賀水道で、そこに突き出ているのが観音崎の岬だ。  三浦半島は「要塞半島」とも呼ばれてきた。  幕末の招かざる異国船から、海防の城塞として江戸、東京湾の西岸を守ってきた。半島と湾上には27箇所の沿岸砲台を設けて、「東京湾要塞司令部」が横須賀におかれていた(*1)。  その西洋式築城技術による砲

南端、三崎港へ|新MiUra風土記

 これは、ことし三浦市が発行した、移住・定住情報誌「MIURA」の巻頭文の一節だ。  三浦半島の最南端、かつて日本有数のマグロ漁港だった三崎港の三浦市だが、人口減少によって神奈川県内で唯一の市の「消滅可能性都市」とされて、新規の来島者による定住促進、町おこしに迫られている。  けれど僕はこの半島南端の町に魅かれている。 北海道のような丘陵畑 三崎港といえばマグロだ。京急電鉄の「みさきまぐろきっぷ」は人気で、週末は京急三崎口駅の港へ向かうバス乗り場に行列ができる。僕は時間