見出し画像

ある晴れた金曜の午後、本を読む理由とその読み方、書くという行為について考えた

みなさんは読書に何を求めているだろうか?

おそらく、その答えは手に取る本のジャンルにも大きく左右されることだろう。

情報や知識を求める時もあれば、

新しい考え方、新鮮な意見を求める事もあるだろう。

スリルや快感を求める場合もあると思う。

そもそも本を読まないという方もいるかもしれない。

これから語るのは、極めて個人的な、私ゆうか@本の虫の本を読む理由と、その読み方について、また書くという行為についての考察だ。

読書人生の土台づくり

母は、自身には読書の習慣など全くないにも関わらず、教育の一貫として“読み聞かせ”に力を入れてくれた。

教育熱心な家庭で、ピアノ、水泳、書道、英会話、バレエと、週4回程習い事にも通わせてくれた。学研と公文を掛け持ちするというスパルタぶりだ。

読み聞かせにも力が入っており、忘れられない回が『火垂るの墓』であった。

母は読みながら感情がこみ上げて来たらしく号泣し始めた。それでも読み切ろうと嗚咽混じりに続けるのだが、もはや何を言っているのか聞き取れないし、幼い子供にとって親の号泣がどれほど恐ろしいものか、おわかりいただけるだろうか。もうこの世の終わりかと思い一緒に大号泣した。いわば、悲劇だ。

父は、空想の創作おとぎ話をよく聞かせてくれた。『へぽたんの大冒険』というタイトルのそれは、今思い出しても胸が高鳴る長編であった。

尊敬してやまない祖父が読書家だったところによる影響も大きい。眠る前には必ず横になり文庫本を読む。その背中を毎晩眺めていた。大人は眠る前には必ず本を読むのだと思っていた。

こうして、私の読書人生の土台が築き上げられた。

本を全く読まないという人こそ、ある意味幸せなのかもしれない

本を読まないということは、その人が孤独でないという証拠である
太宰治『如是我聞』‬

これは、なるほど然りと思った言葉だ。

本を読むという行為は基本的に一人で行われる行為である。国語の授業などは除き、数人で一緒に楽しむような場で本を読み始める人は、まず見たことがない。そんな人が仮にいたとしたら、きっと嫌われるだろう。いや、私は興味を持って積極的に話しかけるが、そんな人間は極小数だろう。

本を読まない、または読む時間の確保が難しい、本を読む必要などない、ということは、その人が孤独ではないということの象徴なのではないだろうか。

“読む理由”という言葉自体、余裕があっていいなあと思う

私の場合、もう少し切羽詰まっているような気がする。

幼い頃から気難しい子供だった。感受性が強く人の感情の動きに敏感。相手が何を考え何を企み、その行動を取っているのか全て見通すようなところがあった。人一倍気を遣っているのに同年代の子供は無邪気で気が付かない。可愛いと思えるような余裕はない。感情が爆発しそうになると一人で逃げ帰る。年上の人と好んで過ごせるような年齢にはまだ程遠く、強いられる集団生活の中で溺れまいと必死にもがいていた。

独り本や漫画を読んでいる時と、夢中で絵を描いている時、眠っている時が安堵する時間だった。

読書と同じくらい漫画とアニメが好きで、少女漫画の『りぼん』と『なかよし』を両方共に毎月購読していた。交際費よりも本や漫画に投資するのは当時から今にかけて、あまり変わっていないように感じる。

読まなくてはいられない、文学は私にとって救いである

小学校4年生、その頃常に考えていたのは、

優しさとは何だろうか?人は弱い方が優しさについて理解しているのか?それとも強い人間こそ優しい人間なのだろうか?

人は生まれながらにして悪なのだろうか?善なのだろうか?

ということについて。ほとんど哲学である。今思えば、笑う。

何をぐちゃぐちゃ考えているんだ、さっさと校庭に出てみんなと遊んで来い!と今でこそ思えるが当時に戻ることが出来たとしても、やはり同じことを繰り返すだけだろう。

4年1組の教室は図書室の隣にあり、10分の休み時間でも気軽に通うことが出来た。

そこで出会ったのは、

灰谷健次郎『兎の眼』だった。

「ぼくはじっとじっと見た。それから、はこの中までじっとじっと見た。赤いやつが出た。ぼくは鼻がずんとした。サイダーを飲んだみたい、ぼくは心がずんとした。ぼくは赤いやつがすき、小谷先生も好き」
灰谷健次郎『兎の眼』

そこには、優しさについて描かれていた。求めていた答えというわけではなかったのかもしれないけれど、灰谷健次郎の作品はその年のうちに、ほぼ全て読みあさった。

そこから、吉本ばなな、江國香織、恩田陸、山田詠美...(敬称略)と、今日へ繋がっていくのである。

私は文学に共感を求める

言葉に出来ない自身の中に渦巻く混沌とした感情について描かれている作品を好んで読む。

それらの作品が、純文学という総称で扱われているのだと知ったのは一体いくつの時であっただろうか。

物語の中で同じく生きづらそうな主人公に、幾度となく共感し、涙し、時には憤怒した。

私だけではなかったのかと安堵した。

文学にかぶりつこう!読解力=人間力=生きる力

Read not to contradict and confute; nor to believe and take for granted; nor to find talk and discourse; but to weigh and consider.
読書は、論争のためではなく、そのまま信じ込むためでもなく、講演の話題探しでもない。それは、熟考のためのものなのだ。
フランシス・ベーコン

読書の仕方についてだが、「知識は力なり」という言葉が有名な哲学者フランシス・ベーコンの読書についての格言が私は好きだ。

受動的に読むのか能動的に読むのかで読書の質は変わる。

文学に向き合う事は己に向き合う事だと私は考えている。さらに言えば、考える力は、生きる力だと信じている。

巷では、速読や月◯◯冊読みます!のように数を重視される方も多く見受けられるが、それはそれで知識として定着するならば大変素晴らしいことだと思うが、私は興味がない。

国語の授業のような読み方が好きなのだ。時間をかけて深読みしたい。

問1.棒線部について主人公はなぜそのような行動をとったのか答えなさい

疑問符を常に自分に投げかけて読み解く。
なぜ?と思うところ、好きな表現、気になるところには付箋を貼り付ける。

読み終える頃には付箋だらけだ。

疑問に対しての明確な答えなどなく、その問いは自身の深層心理について考えるきっかけを与えてくれる。

冒頭で述べたとおり、本を読むということは私にとって、熟考することであり、自分と向き合う行為なのだ。

書くという行為について

書くという行為は、自身の感性を磨く行為だと考える。

一分一秒だって時が止まることはなく、私自身日々変化している。今日考えたことを明日も同じように考えているか、感じたことをそのまま同じく感じるかといえば、そうではない。

今ある感情は今しか表現できないのだ。

しっかりと受け止め何とか言葉にする、その過程自体、磨くという行為だと考える。

また、少し未来の私が振り返ってみたとき、成長を感じたり、変わらない軸のようなものを感じたのなら、それもまた意味のあることのように感じる。

文章もそうだが、写真もそうだと思う。多感だった十代の頃に撮った写真を見返すと胸がひりひりすると同時に当時の自分に嫉妬する。今では到底撮影できそうもない情景なのだ。

また、blogやnoteに書評やコラムを書くことは、自身の考えを提示する為の行為だとも考えている。

ご覧いただいた方から「自分はこう読んだ」と呼応があったなら、それは、さながら国語の授業のようだ。

一冊の本について対話をしたいなら、まず自身の考えを提示する。

本について話すという行為は自分を曝け出す行為ともいえる。特に純文学であれば尚更だ。人間について描かれているのだから当然といえば当然だ。

相手に問うならば自分から曝け出すのは、ある種マナーではないか?

そう考えたことが、blog、note、Twitterを始めたキッカケとなっている。

その欲望と努力の別名が、文学だと思うのです

最後に、そうそうコレなんだよ、こういうことなんだよ、と胸を打たれた文章を紹介したい。

川上未映子氏自ら編集長として編んだ早稲田文学女性号の冒頭の一文だ。

そこで本当は何が起きているの。
あなたは、どこからきて、どこへいくの。
ねえ、いまあなたは、なんて言ったの?

いつもあまりに多くのことを見過ごして、そしてまちがってしまうわたしたちは、まだ何にも知らない。わたしたちは知りたい。わたしたちは書きたい。わたしたちは読みたい、目のまえにひろがっているこれらのすべてがいったいなんであるのかを、胸にこみあげてくるこれがなんであるのかを、そしてそれらを書いたり読んだりするこれらが、いったいなんであるのかを、知りたい_____その欲望と努力の別名が、文学だと思うのです。
川上未映子

文学的に、これからも生きていきたい。

この記事が参加している募集

推薦図書

国語がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?