終わりを迎える時の寂しさは錯覚か本物か

小中学校の卒業式、6年間やりぬいた野球、各年の学園祭、修学旅行、先生や仲間との別れ。今までたくさんの終わりを経験してきた。

私は捻くれている側の人間だ。

そして今、人生最後の学生生活の終わりが見えてきている。私は捻くれているから、卒業式や送別会などで泣く人を見ると冷めてしまうのだ。

だがしかし

そんな私でも、寂しさは感じてきたのだ。すべての終わりの時に寂しさや虚しさで胸が痛くなるのだ。

疑い

じゃあなぜ冷めてしまうのか。それは、「終わりと言う雰囲気に流されただけの錯覚により寂しいと感じてしまったからではないか」と自分や他人を疑うからである。

しかし、その寂しさが錯覚であれ本物であれ、胸が痛いのは事実なのだ(泣)

錯覚である可能性は高い

私が推測するに、ここで言う寂しさは錯覚である可能性が高い。だって、人間は環境の変化を本能的に嫌うって言うだろ??

だから、本当の意味での「空っぽ」な学校生活でも、卒業のときは少し寂しくなるのだろう。

寂しくならないようにした工夫

前途したように、胸が痛い事に変わりはない。正直言うと、胸を痛めたくないし、悲しくなりたくない。だから、錯覚か本物かなんて関係ないし、それ以前の話なのだ。

そこで私は、寂しくなるくらい思い出深い学生生活を送るよりも、卒業して清清するくらいに窮屈で楽しくない学生生活を送る事にしたのだ。(明らかにこの選択は間違いだったが、私の捻くれ具合ではこれ以外の選択肢がなかったのだ)

工夫した結果

今めっちゃ寂しいねん。。。

私は、ドジで人に嫌がらせされたり傷つけられやすい性格だから、とりあえず出る杭になれば叩かれるだけの学生生活になるはずだった。しかし皮肉にも、私が頑固でとことんやり抜く性格が裏目に出てしまい、なんだかんだ人間味溢れる思い出深い学生生活になってしまったのだ。

結局、私の寂しさは本物なのだろう

まず、卒業の半年前にここまで寂しくなるってことは、本物の寂しさを感じている証拠な気がする。だって、周りの友達は誰も寂しがってないし、この日々がまだまだ続くと勘違いしている奴ばかりだからだ。

私は、いろいろ物を考えてから、嫌でも時間は流れることを身をもって感じた。

目先のことしか考えずやっていただけでここまで良いものになるなら、もっと自分に正直に卒業なんて忘れてやり抜けば、もっと高いところへ行けるのではないか。

いや、行けるさ。どこへだっていける。

だけど、宝物であるほど手放した時の代償は大きい。それが怖くて今は逃げているんだ。

何に逃げているかは、以下の記事を参照よろしく。

どうしたら良いの。。。本当に。。。。

この寂しさを何かにぶつけたい。詩でも考えてみようかな。。。(泣笑)

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