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『物は言いよう』は「胸に届く」ことばで

私は「物は言いよう」が下手だ。自分に利を得るために「うまいこと」を言って相手を納得させる一連の流れが苦手と言ったらいいか。遠慮深いと言えば聞こえはいいが、社会人として社会で活動している以上、「物は言いよう」ができないとまずいという危機意識が常にどこかにある。

「嘘も方便」もうまくできないし、なんというか、会話においてストレート以外のボールが投げられない。もともと、言い過ぎて後悔するよりも、失敗するくらいなら言わない、と黙り込むタイプ。良くも悪くもまっすぐだが、裏がなさすぎて交渉ごとにもからっきしである。

警戒心はあるので、騙されることは不思議とないのだけれど、ことばを扱う時に器用さに欠けている。そんな調子だから、周囲から「物は言いようなんだから、うまいこと言えばいいんだよ」とよく諭される。

なぜこんなにも「物は言いよう」が下手なのか。

理由を考えてみたら、多分、自分が「本気で」欲しいと思っていないのに貰う、ということに抵抗があるのかも、と思い至った。

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私も、下手ながら「物は言いよう」を駆使して、本気でもないのに「とりあえず」貰うことはある。でも、粘り強く交渉したり説明したりするという段階から逃げたくて、『疑われたり追及されたりするくらいならいいや』と考え、貰うことを回避する方が多い。

ただ、これは自分が「本気じゃないから」とも言える。本気で欲しいと思えば、私はわりとあきらめない方だから。本気の場合は簡単にはあきらめず、自分なりにいろいろ手を尽くしてチャレンジするけれど、それでもダメな場合はすっぱりあきらめることにしている。

最終的にはあきらめるとしても、「本気で欲しいかどうか」の度合いによって、そこに至るプロセスも思い入れも全然違うものになってしまうのだ。

私は、本気のものとそうでないものとで、気持ちの入れように差がありすぎる。そのせいで、気持ちが入っていないものに対してのあきらめが良すぎるのかもしれない。

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そもそも私にとって、「自分が何かを得る」こと自体の優先順位が高くない。出世したいとか、有名になりたいとか、お金がたくさん欲しいとか、そういう欲が多くはない方なんだと思う。

自分のために動くのが苦手で、誰かのために動く方が得意。なので、農業をやる理由も「地域の農業を盛り上げたい」みたいな気持ちが大半を占めている。まぁ、そればっかりだとモチベーションが続かないので、「自分の納得のいく野菜を作りたい」みたいな目標も立ててはいる。けれど、自分に利を得るような農業のやり方を主軸に据えようとは思っていない。

これから経営者になろうというのに、甘いだろうか。

農業は、私が「本気」でやりたいことだ。だから今、必要に迫られて、必死で「物は言いよう」を使っている。

周囲の人は、そんな私を見ていてもどかしくなるらしく、「こう言え」「こういう理由をつければいける」などと口々に助言をしてくれる。それをほぼそのまま使う時もあるが、大抵の場合は、意味合いは変えず、しかし自分の言葉に置き換えてから使っている。そのほうが、気持ちが伝わりそうだと思うからだ。

本気で欲しいものなのに、「どうでもいい」気持ちで、「どうでもいい」ことばを使って、何かを得るのは嫌だ。

こういう頑固さが、「うまいことが言えない」につながるんだろうなぁ、と自分で思う。こんな潔癖さは、手放しちゃえばいいのにね。でも、これを手放したら、私のなけなしの矜持みたいなものも一緒になくしそうで怖い。

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今、自分なりに、「自分らしさを失わずにうまいこと言う」に取り組んでいるとさっき書いた。でも私は、自分の不器用さとまっすぐさがわりと好きだ。うまいこと言えない自分だけど、うまいこと言おうとして努力している。口で言うのが下手だから、せめて行動で誠意を示したい。

なろうと思ってこうなったわけじゃないけれど、「不器用でまっすぐすぎて下手くそでも、胸に届く」。そんなことばが身体全体で言える人になりたい、と思う。

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