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【連載】東京アビシニアン(9)Roppongi

 シフトを早く上がったら店横の路地に斎藤が待っていた。
英恵ハナエ
 街燈の影から呼び止められて、心臓が止まる思いだった。逆光の明かりの中から、ジャージにパーカーを引っかけた斎藤の姿が浮かび上がると、英恵は頬をシニカルな表情に歪めて笑った。
「なに。待ち伏せ?」
「こっそりシフト早抜けしただろ。まだ八時五十分」
「知らないよ、十分くらい。お客も少ないんだ」
「繁盛してないな。つぶれるんじゃないか、あの店」
 こいつは忘れたころに現れて、都合が悪くなると煙のように姿を消す。英恵は嫌な夢でも見ているみたいに、ふんと鼻を鳴らして足を速めた。大柄の斎藤はポケットに両手を突っ込んだだらしなさで、頼まれもしないのに英恵の隣を歩いた。
「昨日も変な男にナンパ詐欺してたんだろ」
「人聞き悪い。気軽に声を掛けてくるのが悪い、あたしたちのことを見くびって」
「ジュースにベーグル、ティラミスだって?」
「味はまあまあだった」
「相手は?」
「よく見てもいない、見る価値もない」
 お互いよく知った仲だ、社交辞令も久しぶりの挨拶もあったもんじゃない。近頃は薬にも毒にもならない友達とは縁遠くしていたのに、なんで今になって斎藤は姿を見せたのか。英恵の靴音が不透明な苛立ちに曇り始めた。交差点の明るみに出る直前になって、斎藤が足を止めた。
「ねえ英恵、俺はお前がどうしてこんな陰湿な報復ばかり実践してるのか、わからない。みみっちい、勝算の薄い抵抗ばかり」
 斎藤は英恵を正面から見据えた。整った顔タ立ちの割にぎょろりと威圧的な双眸が不吉な虫みたいに黒光りした。英恵はたまらなくなって顔を逸らした。
「あんたに説教される筋合いはない。今日は何しに来たの。用もないのにつきまとわれるの、正直迷惑」
「協力するって言いに来た」
「また、口ばっかり」
「本気だ。今までだって嘘吐いたつもりはないけど、今回は具体的な策がある。全面、協力。俺は英恵のために尽くすから」
「面白いこと言うよね」 
 六本木の夜はゆるく暮れる。夕闇が長く長く、真綿で絞めるような悠長さで溶けのこる。英恵はカクテルに潜む醸造酒の苦味がいつまでも好きになれなかった。砂糖や果実の添加をもってしてもごまかせない雑味、斎藤は英恵の今までの不名誉な側を嫌でも思い起こさせる。
「英恵の方が。革命、だなんて」
 年じゅう豆電球の装飾を光らせたホテルの中庭や、格式高い門構えの高級マンション、無慈悲なビル群の間から、ふっと東京タワーが思いがけない近さに立ちふさがる。今どき珍しい、赤の滲み出るような色から不意に人間らしい温かみを感じてしまうのだから、なんでもない道端で不用意に、堰き止めた郷愁にむせび崩れても、なんの不思議はない。ただ手を差し伸べる者はなく、膝をついた旅人は酸性雨に溶けるロダンさながらの野ざらしのまま。
「笑いたければ笑えばいいよ。私は立ち上がりたいだけ。弱い者たちのために」
 英恵はひと時だけ目をつむって、夜風を鼻腔に充たした。それから鋭いトーンを際立たせて斎藤ににじり寄った。
「聞いた? 最近東京のあちこちで変な強盗が出てるんだって。まるで正体がつかめなくて捜査機関も手こずってるみたい。女の単独犯って話だよ。そいつにできるなら、あたしたちにもできる」
 一週間ほど前から温めていた考えだった。怪盗なんて物騒なものがうろついている隙に、自分たちも粛々と目的を遂行すればいいのではないかと。
「怪盗アビシニアン、ね。職場でも話題になってたな。犯人像は知らないけど、これだけの連続窃盗犯がほっつき歩いてんなら他の警備はおそろかなはずだ。好機かもしれない」
「あたしもそう思う。協力するって言葉が本当なら来週の日曜日、前の場所に来て。あんたが言う策って言うのも、その時に聞くから」
 それっきり、英恵も斎藤も口を開かなかった。
 別れ際、英恵は斎藤の腹を殴ってやりたい衝動にかられた。そんなこと出来るはずがないのに。他人や世間に見くびられたときのざらりとした甘い感触。全身が鳥肌に震え上がるような不快感のかたきを、一心にこの男へ浴びせたいという、独りよがりな復讐心が頭をもたげていた。その欲望が実現しない幸運のまま、斎藤は何食わぬていをしてビジネスマンの流れに呑まれていった。

(つづく)

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