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【連載】東京アビシニアン(6)Kunitachi

 残りの道のりはスムーズだった。郊外の市民病院へ向かう車通りの少ない国道を、快適な時速35キロで滑り、正面口のロータリーにけいを横づけた。
「コート着なくて、寒くない?」
「大丈夫大丈夫。中は暖房が効きまくりなんだもの」
「そうだけど、帰りもあるでしょ。ほら、持っていきなって」
 助手席のシートに放ってあった春用のジャンパーを母に手渡す。四月の半ば、心底冷える気温は少なくなったけれど、はやり朝晩は羽織ものがあると安心だ。母は言われるがまま上着に袖を通した。
「ごめんね。私が迎えに来られればよかったんだけど」
「先約があったんでしょう? お母さんのことは、心配しなくていいの」
「診察券、保険証、お薬手帳。全部持った? それから、次回の予定がわかるものも」
 布バッグの中身を今一度点検する母の手元をバックミラーでうかがう。折り畳まれた卓上カレンダーが目に入った。家の電話の後ろに立てかけてあったのを、母はそのまま持ってきていた。
 母が自転車でバランスを崩し、膝のあたりを打ちつける怪我をしたのは一か月前。便利だからと長年愛用していた電動機付きの、バッテリーの重量を支える足腰の踏ん張りが効かなくなっていた。レントゲンの結果、骨折はなかったけれど、曲げ伸ばしの度に痛みが走るようで顔をしかめていた。お医者さんの話では画像に表れない程度の小さなひびが入った可能性があり、引き続き通院が必要とのことだった。
 後部座席にこぢんまりと収まって荷物を確かめる小柄な母を見ていると、急に胸が締めつけられる気がした。菜の花柄のブラウスにカーキ色のジャンパー、肩近くで無造作に切り揃えられた髪。自分の年齢に二十八を足せば、もうそれなりに老齢と数えられる母の変化を、まざまざと見せつけられるとき、私はたじろいでしまう。誰でもだんだんに坂を下るのに、改めて自覚すると途方に暮れそうだった。家族をいつも優先させる母だ。膝の痛みも、悟られないように声なく耐えていたに違いなかった。
「オッケー、全部入ってるわ」
 持ち物のチェックを終えた母がにっこりと微笑んだ。ランドセルを背負った私を送り出してくれたのと、同じ朗らかな表情だ。
「はーい、じゃ、気をつけて。なんかあったら電話してね」
 つとめて明るい声で答えた。
未来ミクちゃんもお出かけ、楽しんできてね」
 ドアが開いて母は車を降り、私はロータリーを一回りしてまた国道へ出た。
 同じ道のりを、帰りは時速45キロの制限いっぱいで風を切る。
 
 途中、コンビニに寄った。ペットボトルの抹茶ラテと、綿棒を買った。マスカラが滲んでいるのに気づいたのだ。駐車場に停めた車の中で下瞼のパンダ痕を丁寧に拭ってから、ふう、と力を込めて息をき、一段濃い目のアイラインを引き直した。

(つづく)

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