『人間失格』-太宰治

私は太宰治です。

私は読書が嫌いでした。
それはまるで、水が飲みたいのに、蛇口からほんの一滴ずつしか水が出てきてくれないような不快感を与えてくるように感じている。

それでも考えを言語化することは得意でした。
だからこそ、文学とか、文豪とかいう言葉は私にとって魅力的で、自分の持つお気に入りの武器の究極を使いこなす戦士たちと、その営みの総称だと、そう思っていました。

私は太宰治を誤解していたように今では思います。
今後の文章で、「太宰治も赤の他人から勝手に自己を推察され、決めつけがましく紹介されるのは嫌がりそうだ。」という大前提は割愛。率直で主観的な感想を述べたいと思います。

『人間失格』を一読した直後の感想は正直なところ、何が言いたいのかよく分からない。というものだった。
例えば、日常の疑問に対しての好奇心が浅く、問題解決への意欲が薄く。そしてまた、恥の多い生涯というのは浅い言葉だ。恥ずべき生涯というのであれば、如何に恥ずべきだったのか、という説明あってこそだが、恥が多いというのは、自分の生涯の説明を恥という言葉ひとつに丸投げして、しかも、それもまた人生の一部でしかないんだけどね、みたいな。

ただ、『人間失格』を始めたとした太宰治作品を読むうちに、これは別の考えをへと変わりました。
私が文学作品を通して考えいていたことは"文学"そのものについてであったが、作品というのはあくまでも作品であって、"文学"というのは作品を構成するただひとつの要素に過ぎず、そしてそれはなにかの要素を上手に切り出し、ある意味で偏った形にする手段のひとつだと、そう思いました。
『人間失格』は、太宰治自身が自分自身を形容する手段のひとつではあるが、そこから太宰治の全てを推察することは無粋だと、それは読者を太宰治にしてくれるものだと思いました。太宰治自身、自分を感じる時、客観的に全ての事柄を受け止める訳ではない故にそうなると思いました。

なので、私は太宰治です。

彼の人生で(『人間失格』の内容の中で)一番興味を引いた部分は、自殺に関連するところでした。
自分自身、過去に自殺未遂をしたことと、自身の半生を言語化し作品にしようとしたこと、ふたつの経験があります。これは太宰治と同じだと言えそうです。
自身の経験と照らし合わせると、共通点と相違点がどちらもありました。共通点は、自殺をする瞬間の描写について文章量が少なく、特にその時の自分の感情的な部分について一切描かないこと。それは周囲の物理的な、もしくは論理的な描写の差異によってある程度暗示されはすることもある。

自殺をする瞬間というのは、おそらくは動物的な本能によって、心の底で抵抗心が芽生えるものです。そしてそもそも、その行動を実行する原動力というのは、自身が受けたあらゆるネガティブな経験のいずれでもない。過去のいつかある日、ある瞬間に、それを心に決めたその決心が全てを支えます。そこに論理など到底存在しないのです。だからこそ、自殺を踏みとどまる人、未遂をして再び自殺を選ばない人というのは必ず自殺をしない言い訳を持っています。
私の場合は、自己改善することができないと判断したので一度決心した自殺のプロセスを止めるに至りませんでした、それは言い訳として通用しませんでした。ただ今日生きているのは、自己改善できる環境になってしまったからです。それは私に自殺を辞めさせる理由として足りてしまいました。

なぜ私たちが、自殺の瞬間を描く時、感情的な描写がないかと言えば、その当時の心の中を読者が想像した時に思い描くのは、彼自身の走馬灯のようなものでしょう。例えば過去に受けた迫害や嫌がらせの記憶、例えば親しい人を失った自分の悲痛な感情。しかしそれは事実は異なる。実際、私たちに去来するものは、今ここで思いとどまる言い訳です。あと数日すれば、あの嫌な行為を受けなくなるのではないか、死んでしまったあの人はこんなこと望んではいないのではないか。
実際、結果的に自殺を思いとどまる場面ならば、これを素直に描くだろうが、今回は違います。なので、描かない。しかし私たちは確かにあの時言い訳を探していました。
感情的で、論理を拒絶する強迫観念くんに、論理を武器に作った言い訳を、感情的にぶつける営みをしました。周囲の描写が、極めて物理的だったり、論理的だったりするのは、それの暗示です。

相違点というのは、まさにその言い訳の描写です。自殺未遂をした太宰治は生きながらえてしまいますが、『人間失格』には、その言い訳が、一切存在しません。最初は、それが最大の違和感でした。自殺未遂というのは、失敗なのです。言い訳を持たないならば、未遂をしたとて、いずれ死ななければいけません。死なないということは、言い訳が勝ったということです。
それが一切登場しないということが示すのは、この執筆をしているその瞬間でさえ、太宰治は自殺する予定があったことを示しているように思います。

「恥ってなんですか?」
太宰治といつか話す時に、是非聞いてみたい。
これについて参考になりそうだと思える描写が『人間失格』にはいくつか登場するように思います。
学校で演技がバレた部分と、事情聴取での咳の演技がバレた部分はそのうちの一部でしょう。また、尊敬に対する考え方についても、そうでしょう。葉蔵にとっての尊敬とは要するに、多くの人を演技によって騙し得たもの、それが一人の賢い人間によって瓦解することです。
ただ、だからといってその瓦解することが恥だとは言えないでしょう。葉蔵にとって道化を演じることは、利益を貪るためのものではありませんでした。道化を演じることによって注目を集めたかったわけではないし、人気者になりたかったわけでもない。自分への糾弾や追求に過剰な恐怖を感じるからこそ、それから逃れる手段として道化という仮面を被る。演技というのはその仮面をつける動作を示す言葉であると思います。
葉蔵が尊敬を恐れるのは、本質的には仮面を剥がされることを恐れているのではなく、仮面のない姿で生活すると、時より訪れる糾弾や追求への恐れでしょう。

「実は"人間失格"なのは葉蔵じゃなくて、葉蔵をいじめた下男下女や、ヨシ子をレイプしたやつが"人間失格"ってことなんじゃない?」
私の友人はそう言ったことがありました。私はその時瞬時にそれに対する独自な意見を返せませんでしたが、今でははっきり違うと思えます。
葉蔵は、自分が人間というものをよく理解できていないと考えていました。周囲の人間の苦しみについて考えを巡らせることもあれば、うちに秘められた攻撃性に恐怖したりもします。
葉蔵は人間というものを理解していないし、道化という仮面を使いその向き合うべき課題から逃げている、仮面が誰かに剥がされ、その正体を表すことにさえ恐怖している。そんな自分は、もはや"人間失格"だ。という意味だと思えます。

葉蔵と親しくなった、よく一緒に酒を飲んだ友人や、結婚したり関係を持った人間というのはみな、葉蔵へ糾弾や追求をしない人間だったように思います。彼らのそんな側面を葉蔵は、相手との付き合った時間や、疑いを知らない様子、糾弾や追求を過去に受けその痛みを知っていそうな雰囲気などから感じ、親しくなっていったのだと、そんな風に感じます。
そして葉蔵もまた意図的にか、潜在的にか、他人への糾弾や追求を避けています。一番分かりやすい例は、「世間が許さないのではない、あなたが許さないのでしょう。」の部分でしょう。葉蔵はこれを相手に直接言うことはありませんでした。

さて話を戻すと結局のところ、葉蔵にとっての恥とは、仮面を被り続けたことであると思います。
そもそも自分の人間性に恥を感じていただけではないか?という意見を持つ人もいるかもしれませんが、それは違うように思います。「恥の多い生涯を送ってきました。」という言い回しからは、生涯において多くの恥を残してきた。というニュアンスが汲み取れます。もしもそれが、自分の人間性に関する事柄であれば、「私は恥の多い人間です。」の方が、より相応しいでしょう。自分の今までの人生に、多くの恥を自分の手で残してしまった反省が込められた文句だと感じます。
例えば、人間の糾弾や追求に向き合わずに道化へ逃げたこと。例えば、糾弾や追求をしなかった人間にさえ、仮面を外そうとはしなかったこと。

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