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208 感じる未来

映画『サイド バイ サイド 隣にいる人』

 留守番の2日目。幸い、締め切りなどもないので精神的には極めて安定している。それでも妙な時間に目が覚めてしまったりもした。朝は6時頃に愛犬に起こされた。いつもよりかなり遅い。通常5時から5時半。早いときは4時半頃だから。その「微睡み」こそが至福でもあるのだが、今朝はあまり微睡まず。ただ一点、書きかけの原稿の修正点のみが浮かんだ。
 ワンオペでの留守番ゆえに、忙しい。まず愛犬の腹を満たすこと。それから布団を片付けたり顔を洗ったり。朝食はゆで卵を2個つくり、1つを食べた。いい感じにふわふわにできた。岩塩をかけるといい味だ。小袋に入ったナッツ、ビスケット。紅茶をティーパック2個で多めに作り、これを午後も飲むことにした。
 夕べ、映画『サイド バイ サイド 隣にいる人』を観た。奇妙な映画だった。映像はきわめて美しい。信州あたりの自然が映し出されている。ストーリーはよくわからない。わからなくてもいい、ということなのだろう。だとすれば130分は長い気がする。映画としてのリズムは悪くなくて、私のように細切れで観る人間には問題ないけれど、劇場で通しで観る人にとってはどうなのかな、と少し心配になった。たぶん、私なら途中で帰ってしまったかもしれない。ま、劇場で映画を観ることもほとんどないので、案外、楽しく最後まで観た可能性もあるけれど。
 かなり前のWOWOWの「W座からの招待状」を録画したものだったので、映画のあとに小山薫堂と信濃八太郎の話がつく。そこでも2人は内容についてはいくつかの可能性を示唆していた。小山がサルトル「存在と無」を持ち出して「無」について語り、自由について語る。「人間は自由の刑に処せられている」とか。サルトルはまだ読んだことがない。学んだこともない。なにも知らない。けれど、言葉からの印象だけだが、自由についてのアプローチなど考えたこともなかったので、なるほどと感じた。
 未来を考えるとき、人は自由を考えることになるのかもしれない。裏返せば過去は不自由である。固定化されてどうにもならない。だからこそ、未来に目を向けるのが人というものだろう。

背後に感じた何か

 昼は冷凍ご飯を温めて納豆で食べた。愛犬の世話もしつつ。いつもなら眠る時間になかなか寝ないのでヤギミルクを多めにあげると大人しくなった。
 歯を磨いていたら、ふと背後に何かを感じた。
 誰かがいるような気がした、というやつだ。たぶん、映画『サイド バイ サイド 隣にいる人』の影響が残っていたのかもしれない。
 そして義母の葬儀で、今日、火葬となると聞いていたのを思い出し、もしかするとその時間だったのでは、と勝手に結びつける。故郷の方向だろうと見当を付けて合掌する。
 外が暗くなってきた。どうも夕方に雨が降る可能性があるようだ。
 過去となったものは、不自由な世界で固定されてしまう。固形物は見る角度を変える、光の当て方を変えるなどすれば多少は変化を感じられるものの、ゆるぎない。破壊するか、溶かすかしなければ、カタチは変わらない。
 では、未来は自由なのだろうか。それも違う気がする。茫漠とした未来のことを考えれば、人は不安になって当然だろう。不安の中で、一歩ずつ手探りで未来へ向かう。それが「自由の刑」なのだろうか。
 亡くなった人は過去に固定され、生き残った者たちは不安な未来へ向かう。そしていずれ自分たちも過去になる。それを虚しく感じるか、むしろ吹っ切れるのかは人によって違うだろう。人によって、その人の状況によっても違うだろう。昨日は虚しく感じ、今日は吹っ切れているかもしれない。
 未来を少しでも感じ取れるときがあるとすれば、きっと不安の中にいるときなのかもしれない。

描きかけ。まだまだ未来が必要だ。


 
 


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