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268 老衰の行方

病院を嫌う

 このnoteでたまに書いてきた母(90歳)のことだ。
 このところ、昼間でもうたた寝をしている時間が長くなってきた。
「どうしたの、大谷やってるよ」と野球が好きだから、声をかけると「ちょっとね」と言うものの、目を開けない。ようやく目を開けると「寝てないよ」と言う。「聞えてるから」と。
 いや、耳はかなり前から遠くなっている。大きな声で話さないといけない。補聴器をつくる話もいつしか「面倒臭い」と言い、通販で手に入れた音を拡大する小さな装置を使って医者と会話している。
 食べる量もかなり減ってきた。
「だって、おいしくないもの」と言う。ヨーグルト、ゼリー、果物などを食べていて、ご飯やパンは少ししか口にしない。カステラが好きだった時期もあったのだが、いまはカステラは食べられないという。喉を通りにくいようだ。ジュースは飲んでいる。あと、クスリも飲んでいる。医師の処方は、いわゆる痛み止めが中心だ。血圧を保つ薬もある。
 微熱を繰り返している。検査しなければ原因はわからない。
「病院には行かない。検査はしない。これは老衰だ」と主張する。
 医師と何度か話をしたが、当人の頑なさもあって、ムリに病院へ連れて行くことはできない。
「救急車は呼ばないでね」と真剣な顔をして言われる。「点滴とか管をつけられたりするのは嫌だから」
 老衰で、自然に命を終えることを望んでいるようだ。
 だけど、本当にそんなこと、できるのだろうか?
 たぶん、高熱が出たり、突然呼吸困難になったりすれば、私は救急車を呼んでしまうだろう。嫌かもしれないが、管だらけになる可能性はある。
 やはり90過ぎで亡くなった義母の場合は、病院と施設を何往復かした。老人介護の施設にいたので、施設としてはなにかあれば病院へ連絡して連れていく。そこで点滴をするなりして回復して、また施設に戻るのである。そうやって94歳まで生きた。最後はなにも口にせず、眠ったように亡くなったと聞いている。

言葉にすれば簡単だけど

 老衰と言葉にすれば簡単だし、「老衰で亡くなった」と聞けば「きっと穏やかに天寿を全うされたのだろう」とこっちは思う。
 とはいえ、花が枯れるときもそうだけど、時間は短いようで細かく見れば長い。あっという間に枯れてしまうようでも、何十もの変化の果てに枯れるのだ。
 不可逆的なので、もちろん枯れ始めたら、元に戻せるものではない。老衰もはじまったら元には戻らない。
 昨日は台所に立って、ブロッコリーを茹でていた。固い芯のところを削いで「中の方は茹でるとおいしい。お父さんが好きだから」と言いながら、包丁を使っていた。
 父(95歳)は、自分で味噌汁を作れるようになった。母がほとんど台所に立たないからである。それは、そもそも左足が不自由で腰から足にかけて痛みが酷いからであって、老衰とは必ずしも直結していなかった。少なくとも今年のはじめ頃は、そうだった。車椅子での移動も可能だった。
 それがいまでは車椅子に乗るのも「嫌だ」と言う。そして、たまに歩行器につかまって立ち上がり、台所に立ち、風呂に入いり、棚の中にあるものを点検して賞味期限の近い食品を確認している。
 相撲も好きで、先場所は熱心に見ていた。7月場所がはじまれば、また熱心に見るだろうか。8月の夏の甲子園はどうだろう。
 母は戦中、ハルビンの花園小学校に通っていた。満州の冬は厳しく馬車で通っていたという。その頃住んでいたのはロシア人によって建てられたマンションだった。冬の松花江(スンガリ)でスケートをした。男兄弟が上に数人いて、みなスケートが上手かったらしい。戦後、引き揚げ船でなんとか日本に帰れたが、結核を患っていた兄のひとりは船に乗る前に亡くなった。そんな話をよく聞かされた。
「バターがとてもおいしいのよ。コンビーフもね。ぜんぜん違うの」
 日本の田舎育ちの父とは味覚の点ではかなり違っていたようで、それでも母は料理好きだから、父を徐々に洋食に馴らしていったようだ。私自身、子どもの頃のご馳走としては洋食が多かった。父が生まれて育ったところでは、ブロッコリーを食べたはずはないのである。
 こんなことをnoteに書いてみたものの、ある意味の人生のゴールへ向かいつつある母には少しでも穏やかな日々であって欲しいと願うばかりだ。大したことのできないもどかしさや無力さは、この際、脇に置いておきたい。私の気持ちなんてどうでもいいのだから。

商店街(ひとまずここまで)


 
 


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