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328 表現者は自分に向き合う

自画像を描く画家たち

 表現するとき、最終的に、あるいは最初に、自分を表現しなければならない。もちろん、ほかにも表現したいものはあるだろうから、なにを表現してもいい。だけど、結局は自分をちゃんと表現できないでいると、いつまでも他人の表現を借りているだけになってしまう。もちろん技巧的に優れていれば、他人の表現を借りて発展させていくだけでも、ものすごいものを生み出す可能性はあるから、自分をことさら表現しなくてもいいかもしれない。
 それにしてもいずれ、自分に向き合うことになってしまう。なぜなら、自分は他人になれないからだ。憧れたある人のような表現をしたくてはじめたとしても、それはまったく同じものになるはずもない。無自覚に自分が入っている。
 自画像を描く画家はとても不思議な気がする。

 宗教画や神話を描いていても、そこに自分が入り込む。それは自意識であり、オリジナリティでもある。オリジナリティは「自分ならでは」の表現のことだろうから、そこにどう自分を入れていくのか、あるいは自分らしさを出すのか、さらに正反対に自分を入れないようにする、自分らしくない表現にするためにも、そもそも「自分」を見つめないといけない。
 自分のことばっかり書いているとして、それはどこまでが自分なのか。
 自分を描いたときに、それが本当に自分なのか。
 実はそれはたぶん、誰にもわからない。作者にもわからないかもしれない。だから何枚も自画像を描くのかもしれない。昨日の自分と今日の自分は違うだろう。
 写真でも音楽でもたぶん、それは同じではないか。ゲームや映画でも、きっと自分と向き合う必要性に迫られるに違いない。

評価されるとは限らない

 残念ながら、いくら自分に向き合って「これだ!」と表現したとしても、他者から評価されるとは限らない。錬金術のように、その人の手にかかればあらゆるものの価値が向上してしまう、なんてこともあるかもしれないけれど、むしろそういうときには自分をどこかに隠しておいた方がいいかもしれない。自分が出てしまうと評価が下がってしまうなら、出さない方がいい。
 タレントや歌手、俳優の中には思わぬ評価を得てしまい、自分とは違う表現をし続けることになる可能性がある。「仕事だから」と割り切ってしまえればそれでもいい。割り切れなかったら苦しむことになるかもしれない。
 自分と向き合って生まれた表現の評価は、散々かもしれない。だったら自分を殺してしまった方がいいと決断することだってある。
 他人に認められるかどうかを唯一の尺度としてしまうと、自分の表現は曲がってしまうかもしれない。とはいえ、評価されていない部分の自分だけが本当の自分なのかは疑問だ。いかにもそこが愛おしいかもしれないけれど、錯覚かもしれない。他者によって発見された自分の一部こそが、自分であっても不思議ではない。
 どうやって自分を認めてもらえばいいのかとあくせくする。それもひとつの生き方だし。一方、自分は自分だ、と割り切って生きるのもありだ。
 どちらの生き方でも、自分を把握しておいた方がいい。ときどき、自分に向き合ってみる。自分の本質とはなにか。正面からぶつかってみて、弾けるなにかを拾い集めてみる。自分を触媒で変化させてみる。その上で、丁寧に自分を隠すのもよし、露骨に自分を出すのもいい。
 いまは絵を練習している段階だけど、いずれは自画像にも取り組んでみようか。ふと、そんなことを思う台風の午後。

左側は難問だ。


 

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