257 やるときはやりますよ
このnoteは、教訓でも教科書でもない。どちらかといえばグチである。グチグチとなにかをつぶやきながら糸口を探す。抜け出すための入口あるいは出口。たしかに、いま見えているそこが入口か出口か、誰にわかるのだろう。出口だと思って抜けてみたら入口だった。寄るとそこが白くなっていたりするかもしれない。
自分のことに限らず、「本気、出せない」気分はある。いまの日本を俯瞰で見ると、すごく本気でやっている部分はピカピカと稲妻のように光っているけれど、そのほかは「本気、出せないよ」と闇を深くしている。きっと宇宙から見た日本はそうだろう。
誰も、その闇を照らす人はいない。
ピカピカ光っているところへ集まる人たちはいる。小さな光が照らせる範囲に顔を向けていれば、その表情はかろうじて見える。どの表情もぼんやりとしている。ぼんやりとした不安。ぼんやりとした恐怖。
そのすぐ横に闇が迫っていて、そこにだって人影はあるのに、表情まではよく見えない。なにを感じているのか、なにを考えているのか読み取れない。
「そこにも光を当ててみようよ」
「ダメだ。そんな余裕はない」
「だけど、そこにも人がいる」
「いたとしても、どうにもならない。光の当たる範囲だけで精一杯なんだから。それに、この光だっていつまで保つか……」
「ええっ、それは困るよ」
「でも、仕方がないんだ」
「仕方がない」で片付けていいのか。味方かもしれないのに。そこにあるのか、型破りな発想。無気力を装う。予想できない未来。知りたくない現実。
たまに響く笑い声。それは勝利の雄叫びなのか絶望の嘲笑か。光の中心はまぶしくてよく見えない。そこにいる人たちの顔面に、仮面のように貼り付く微笑みは、すべてを嘘で塗り固める肩書き。後書きはできている。前書きもできている。本文だけが足りない。なにもかも未完成で足りていない。
「不満しかない」
「我慢するしかない」
「なにかするしかない」
「絶望を遠ざけるしかない」
光はどんどん遠くへ逃げて行く。絶望の闇が迫る。悲しい逃走劇の終止符は誰が打つのか。自分を映して鬱を悟る。
この状況を打開できるかもしれない。誰がそれをやるのか。あの人にやれるのか。やれると言っている人にやってもらうのか。やれると言っている人はやれるのか。やれなかったときはどうするのか。
いま、そんなことを考えたところで突破口は開けない。
「誰か、本気、出せよ」
「本気? いつだって本気だよ」
「そんなの本気じゃない」
「本気出したら疲れるじゃん」
「本気出したら損するじゃん」
じゃあ、いつになったら行動するのだろう。
「やるときはやりますよ」
「いつ?」
「やるとき、ですよ」
「いまじゃない?」
「いまじゃない」
闇がぼくたちを包み込む。