見出し画像

305 勝負の行方

真剣さと遊びと

 この社会では、日々、さまざまな勝負が繰り広げられている。
 朝、電車に間に合うか。その電車の混雑具合は。目的地は晴れているか。ゲリラ豪雨に当たらないか。昼飯は並ばずに食えるか。締め切りに間に合うか。残業せずにすむか。会議は早く終わるか。とにかく、きりがない。きりがないけど、勝者もいれば敗者もいる。何勝何敗なのか、面倒だから計算しないけど眠る前には「よかったとしておこう」と言い聞かせて、明日に備える。明日もまた、いろいろと勝負がある。
 勝負はこっちから仕掛けることよりも、挑まれる、あるいは勝負のシチュエーションにはまり込むことが多いかもしれない。仕掛けるときは心構えもあるし、勝算について考えることもあるだろう。だが、ふいに訪れる勝負についてはそうもいかない。以前にも似たシチュエーションがあれば、経験を活かすことも可能かもしれない。ただ、突然でありしかも毎回微妙に状況は変わる。とっさの対応力、臨機応変さも必要だ。
 すべての勝負に真剣に対応することは不可能なので、「勝てたらめっけもの」「負けてもいいや」とゆるく考える、いわば遊びの勝負もある。
 真剣にやれば勝てるわけでもなく、遊びであっても必ず負けるわけではない。
 これだけ日々、勝負に明け暮れている人間は、さらに勝負が好きなので、スポーツ観戦に熱中する。MLBもあればオリンピック、高校野球、相撲、サッカーときりがない。
 遊びでも、いや遊びだからこそ真剣になる、という人もいる。この捻れた感覚は人間の高度な叡智とつながっているのか。それとも、原始の名残、サルの尻尾としていずれ消えていくものなのか。

曖昧さを嫌うはずだが

 たとえば「クマのプーさん」(A・A・ミルン著)。私は石井桃子訳で育った世代でディズニー版は見てもいないのだが、このペーソスと諦めとため息と微笑みと寛容さみたいなもので作られている物語の中にも勝負ごとがある。「プー棒投げ」だ。川にかかる橋の上流側からそれぞれ棒を落として、急いで橋の下流側へ行って誰の棒が最初に流れてくるか。後年、人々によって有名になりすぎて選手権までやるぐらい本気モードになってしまったようだけど、それはあくまで人間の話。プーさんたちのやり方は、どう考えても運任せな上に、勝敗も曖昧すぎる。それは、勝負なのに勝ち負けを決めることが目的ではないからだろう。流れる棒を眺めることが目的なのだ。
 なんとなくやってみた。そして楽しかった。本来、勝負事は最初から命がけではなかったかもしれない。それを命がけにしたのは人間たちだ。
 そのため、勝負については曖昧さを嫌う。「どっちが勝ったのか、はっきりさせてくれ」という欲求に答えなければならない。曖昧なままの勝負は、あってはならない。サッカーなら暴動が起きる。
 こうして人類は審判制度を導入し、厳密な競技ルールを生み出し、いまではビデオで判定するほか、競技によってさまざまなセンサーなどで判定できるように工夫している。
 昨日だったろうか。相撲の勝敗で行事の判定に物言いがついた。スローで見る限り、明らかに勝者とされた力士の手が先についている。ただその手は技をかけた側のもので、技をかけられた側は完全にやられて土俵の外に出ようとしている。が、わずかに手が先。それをテレビの解説をしていた親方は「ビデオではそう見えるが審判団は別の判断をするかもしれない」といった話をしていた。実際にはビデオで見た通りとなって行事差し違えとなった。勝ったと思った側は敗者となった。
 しかし、もし親方の言うことが相撲の常識なら、審判団の人選によっては違う結果になったかもしれないのである。そういう考えの親方が審判だったら違っていてもいい。ええええ! そんなのあり?
 もちろん、野球にしても、さっきまでボールと判定されていた球が、急にストライク判定になることだってあるし、スイング判定だったはずなのに、同じぐらいバットが振れていてもセーフになってしまうこともある。よーく見ていると、なんだか肝心なところが曖昧だったりするのがスポーツである。審査員による採点で決まる競技はなおさらだ。
 勝負に人類はどれだけの歳月と血と汗と涙をかけてきたのかと疑いたくなるようなことが、21世紀のいまも行われている。このところ自分で気に入っている言い方をすれば「それを含めてのスポーツ」。それを含めての勝負ってことなんだね。

まだまだ建設中。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?