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270 縁のある場所

東京に住みだして

 都知事選である。あるときから、東京に住みだして投票する権利を得た。
 最初の東京暮らしは大して楽しくはなかった。風呂なし四畳半、共同トイレ炊事場。下宿である。1年ほどだったが、いわば就職浪人中にそんなところにいた。高田馬場のそこは、私が出た直後に立派な鉄筋コンクリートに建て替えられたのですでにない。家賃をすぐ近くで商売している大家さんに現金で届けた。たまたま、隅田川のアサヒビールの工場でバイトすることができて、そこは風呂があったので高田馬場の銭湯は行ったことがない。パール座と早稲田松竹はよく行ったけど。
 それから出版関係の仕事に就くことができて、あまりにも忙しいこともあって横浜の実家へ戻った。横浜から銀座へ通った。通勤時間は長くなるものの、本を読むこともできるので苦ではなかった。少なくとも当時は。
 いまやれと言われたら、たぶん、できない。
 仕事をしているときに知り合った妻は、太田区のマンションに暮らしていた。そこに転がり込み、東京暮らしを再開。一緒に広いマンションに越したが太田区民を続けた。
 ところが、家族構成の変化によって、再び横浜の実家暮らしとなった。二世帯である。犬も飼い始めた。これは快適なようでも、なかなか大変な面もあった。子の学業の関係もあり、私の仕事の関係もあって思い切って東京へ行くことにした。

なぜか親しみのある街

 正直、縁もゆかりもない場所に住むことになった。当初、南千住方面でいい部屋を見つけて仮押さえした。その夜、どうしても眠れなかった。翌朝妻へそのことを言うと、彼女も眠れなかったという。キャンセルしよう、と決めた。部屋探しは振り出しに戻る。「ペット可」でなくてはならないので、見つけるのは大変かと思ったのだが、妻は独特の勘で、台東区上野あたりのマンションを発見。結果、そこに決めたのだった。
 そこは、やはり縁もゆかりもない場所ではあったのだが、なぜか親しみのある街だった。いまはマンションだらけになってしまったものの、引っ越してきた頃(2000年頃だ)、まだまだ下町で、総菜屋もあり便利だった。なによりも交通は便利だった。地下鉄もJRも使える。歩いて御徒町、秋葉原、浅草へ出ることもできる。
 やがて、まったく縁のない場所でもなかったのだと気付く。
 妻は東北出身なので、上野駅はまさに北の玄関口。近隣に北関東出身、東北出身の人は多かった。私は、幼い頃に父に連れられて浅草へ行った印象を強烈に記憶していて、大人になると何度も浅草へ行った。かろうじてまだ映画館がいくつもあった時代だった。いまJRAの場外馬券売り場の向い側(浅草寺側)には空き地があって、そこで怪しげな骨董市をやっていた。いまでは、「正ちゃん」ぐらいしか残っていないのだが、当時は牛めし(牛もつ煮込み)の店はいくつかあって、その香りが漂っていた。いまはホッピー通りと呼ばれ観光客でいっぱいだ。
 友人と毎年のように酉の市へも行った。友人も浅草が好きだった。どうして心惹かれていたのか、いまもよくわからないのではあるけれど。
 都知事で言えば鈴木、青島の頃と、石原、猪瀬、舛添、小池ということになる。
 いま住んでいるところが終の棲家になるのかはわからないけれど、これだけ街が変わってしまうと、愛着もあるようでないようで、なんとも言えない。私は横浜育ちながらも、浜っ子とはとても言えない住宅地育ち。いまでは東京の住人ながら、まだ「仮」な気もしている。
 上野界隈へ越したときにいた犬は亡くなり、その次に保護犬を引き受けたのだがその子も亡くなり、いまの保護犬は三代目。いまの子は福岡生まれではないかと推測されている。
 寄せ集め、吹きだまり。それはいかにも東京らしくもある。

ちゃんと出来るのかな。


 
 

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