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220 絵の効用

絵をさらりと描く人たち

 台東区の中央図書館には池波正太郎の書斎が再現されている。なによりも驚くのは絵と絵の道具だ。作家であることはよく知っている。時代劇の定番を数々世に送り出した作家だ。だから原稿用紙や台本、そして出版物が並ぶことは想像できる。それより目を引くのは絵なのである。さらりとスケッチしたかのような水彩画、渋さの中にユーモアの漂う表現。どうしたって、そちらに心は奪われてしまう。絵の力は強い。
 最近は見なくなったが、「じゅん散歩」が好きで録画して夜に見ていた時期があった。高田純次は都内を中心にさまざまな場所をぶらつく。そしてそのときに出会った光景を絵にする。これがまた、短時間にササッと仕上げたようにも見えるのに、いい感じなのである。人物はあまり似ていないことも多いのだが、似顔絵描きではないので、それでいい。自身を描いているときも、たいがいいまより若い雰囲気で描いているから。
「絵は苦手」と片付けていた私だけれど、こうしたことには妙に心が惹かれていて、「ああいう風に描けたらな」と思ったりもしていたのだ。だから、「お試し」で色鉛筆セットを試すチャンスが来たとき「これだ!」と飛びついた。以前から、この「お試し」ってやつは、なんだかこっちの心を見透かしているようで気持ちが悪いときがある。「こんなのどう?」と提示される品々の大半は、自分には関係のないもので、試す気にもならないのに、希に「ウソだろ」とこっちが驚くほど、いいところを突いてくるのである。
 そしてやってみる。
 当然、下手なので、満足のいく結果にはならない。どう転んでも逆立ちしても、どうにもならない。一瞬、ちゃんとしたプログラムで絵を勉強した方がいいのでは、と思うのだが、過去にも、こうしたケースで思い切って学ぼうとしていっぱい失敗しているから、やらない。

集中力の質が違う

 そんなこんなで試行錯誤しているうちに、メディバンに出会った。無料で使える。その気になれば学べるコンテンツも豊富だ。「いずれ学ぼう」と思いつつ、元来そんなことが好きではないから、学ばずにいまのところやってきている。
 最初、メディバンのいい点は、線で囲まれた中に色を流し込めるところ。これはプレゼン用の資料づくりにパワポとか使っていたらわかるけれど、とても便利。それに鮮やかで楽しい。線を描けば、カラフルな作品がポンと出来上がる。そんな楽しさにハマったのだが、やがて、「塗りたい!」と思いはじめる。流し込むと確かに鮮やかでいいのだが、それだけでは満足できなくなった。自分で塗りたい。
 無料でも、Gペンから丸ペンから鉛筆、エアブラシ、水彩、油絵とさまざまな筆が選べる。いまは、油絵にはまっている。「塗りたい」欲には、これがなかなかいいのだ。重ねて塗ることができる。ちょっとぐらい失敗しても、あとで取り戻せる(取り戻せないときも、もちろんある)。
 無心になる、とまでは言わないけれど、集中できる。
 集中については、これまで文章を書くときに何度も経験している。ゾーンに入るのである。物書きの点では時間を忘れて集中して、文章を組み立てていくことができる。いま書いている言葉に集中しつつ、全体の流れ、構成、必要な情報を計算しながら書き進める。いつもではないが、とてつもなく集中できるときがあることを、私は知っている。
 絵の場合はそれとはかなり違う集中だ。科学の実験のような感覚がある。「ここにこの色を配置したらどうなるか」とか「もっと太い筆でバーッと描いたらどうなるか」といったことを試行錯誤しつつ、全体を考えていく。また「この色じゃない」とか「もっと鮮やかに」とかいろいろな欲望がわいてきて、それが出来そうで出来ないもどかしさも感じつつ、「まだはじめたばかりだ」と自分に言い聞かせて、「思い切ってやってみよう」と決断する。
 誰の迷惑にもならないし、紙資源のムダにもなっていない(電力のムダではあるけれど)。
 文章を書いたあとに残るのは、疲労もあるけれど、それ以上につぎつぎと持ち上がる課題である。ずっと尾を引く。なぜなら、文章は、ある段落の機能はほかの段落の機能との関連で発揮されたり発揮されなかったりするからだ。部分だけよくてもちっともよくないのである。最終的には全体の構成との兼ね合いになるから、あそこを修正したら、こっちも、となっていき、なかなか解放されない。
 ところが絵は違う。もちろん課題は山積である。それはそれでいいのだ。絵は自分が描きたかったものになっていれば、巧拙の問題はあるとしても、とりあえず完成できる。「いまの私はこれ」でいい。明日は違うかもしれないけれど、「いまはこれでいい」と言えてしまう。この解放感。
 毎日15分から30分ぐらい、絵の時間を取ることで、私の中に渦巻いているもやもやしたものが解消される。
 たしか認知行動療法で、気持ちを書き記す療法があったような気がする。それは文章の効用だ。絵にはまた別の効用があるのではないか。

なにを描いているのだろう。





 

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