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9 納得ってなんだろう

『それでも日々はつづくから』(燃え殻著)


 週刊新潮に連載されている燃え殻さんの 『それでも日々はつづくから』を毎回、楽しみにしている。131回(23・10・5号)に「人生は成功するためにやるんじゃない。納得するためにやるんだよ」とゴールデン街のママに背中を押されて小説を書くようになったとあった。
 納得である。いや、冗談じゃなく。
 納得している人生と納得できていない人生はかなり違うだろうな、と思う。ぼくの納得感はそこにある。生まれつき抱いている抗い、世間と自分の乖離。「違うんだ」という思い。そういう自分も、いまはそこそこの納得感で生きている。ぼくの場合は仕事のチョイスで結果的に達成された部分が大きかっただろうし、こうしていまも文章を書いているのだから、たぶん納得できているのだろう。
 だけど、納得ってなんだろう。いろいろな定義を参照すると、要するに「理解」は知性で対応できるが、「納得」は自己の観点から自分の考えとして理解できることに限られているのではないか。ちっとも「要するに」ではないが、なかなか納得いく納得の説明は難しい。結果的に自分で「よし」と思えばそれが納得だろう。ふわっとしているけども。
 それはつまり、自分なのである。自分しだい。

居心地のいい会社を辞めて記者へ

 ここからは私自身のことを書こう。
 思い返せば、自分の不満はかなり古く、恐らく小学生の頃から芽生えていてそのまま中学で爆発したのだろうと思う。爆発といっても大したものではなく、あくまで自分の中でなにかがボシュッと破裂したのだ。
 破裂してしまった以上、元には戻れないなと自覚したのが高校時代だったとも言える。
 妙な話、高校受験で失敗し、まったく希望していない高校へ進学したのだが、幸いにもそこは付属高校だったので成績上位でありなおかつ付属校内で行われる試験にパスすれば大学へ進学できた。いわゆる予備校、大学受験というものを経験せず、確か高3年の11月にはもう進学が決まっていた。
 破裂してしまった自分としては、受験で自分の人生を変えるといったようなごくまっとうな道は最初からない。もちろん、その気があれば選択はできただろうけど、好きな勉強しかしないと高校時代に決めてしまったので受験勉強はまったくできていなかった。だから、もし他大学へ入試で入るなら間違いなく浪人することになっただろう。それは、きっと破裂の修復になったかもしれないし、さらなる破裂につながったかもしれない。わからない。
 この頃、いろいろ小説を書いていて、大学へ行くと、やはり書いていたのだが、特に成果は残せなかった。いまから思えば、ちゃんと書き上げた原稿はなかったかもしれない。その頃の原稿はすべて破棄した。
 大学卒業時に、書くことで仕事にできるものとしてメディアを志望したが、うまく行かず。唯一、競馬新聞に最後まで残ったが、これは、自分からあまりにもハードそうなので諦めた。
 どこにも行く当てがなく、営業の仕事に就いた。リコーの関連会社でオフコンとかコピー機、FAXを販売するのである。それは、みんなでキャンプに行ったりスキーに行ったり、楽しい職場であった。ノルマもあるが人を大切にしている職場で、当時としてはたぶん、珍しいことだったろう。自分としては大した成績でもないのに、けっこう給料を貰えていた印象があった。
 そのとき、学生の頃に書いたショートショートがある月刊誌で採用された。その瞬間、自分はいまの仕事をこの先やっていくことに、まったく納得できなくなってしまった。
 会社を辞めて、ジャーナリスト専門学校のルポ科に入り、バイトしながら「書くこと」を改めて考えるようになった。前期終了時に、このまま学んでいたのでは自分にはルポライターはムリだ、何者にもなれないと考え、再就職を目指した。当時は新聞の求人広告に編集関係がそこそこ掲載されていて、片っ端から応募した。
 ある業界紙の記者募集に引っかかった。面接を二回し、作文を三本書いて入社した。
 作文とはいえ、自分で「書く」ことではじめて認められたと感じた。これまで、誰かに認めてもらうために書いていたのだ、とも感じた。
 そこそこ歴史のあるその業界紙で、そんな中途入社をした者はいなかったと、あとで知った。基本は新卒あるいは準新卒のみで、記者は六大学あるいは同等以上の大学で新聞やメディア、法学系のみしか採用していなかった。中途採用は他誌紙の経験者のみであった。「未経験可」というのは、記者とか編集の経験はあるけどこの業界のことは知らなくてもOKという意味だったのである。

記者失格で編集へ

 当初は記者だった。半年ほど研修を兼ねて、取材し記事を書く日々だった。周りは自分より若くても、みなバリバリのメディア志望の連中だ。
 半年やってみて、「新聞記事じゃねえな」と編集長に言われた。「どうしてですか?」「おもしろすぎるだろ」。
 新聞記事はおもしろく書いてはいけないのである。まして業界紙だ。読むのはその業界でしのぎを削っている人たちである。
 幸い、その業界紙では月刊誌、年刊誌、名鑑などさまざまな出版物を出していた。まれに単行本も出していた(社史や経営者の伝記)。そっちに回されて、いきなり雑誌の実質的な編集長になった。名目上、編集長はいたのだが、その人は会社とケンカしていてろくに仕事をしないのだ。その上は高齢の役員であまり会社に来ない。
 毎月、百ページある雑誌を一人で作るのである。依頼の仕方も知らなければ、企画書や依頼状の書き方も知らない、台割づくりもはじめて。雑誌づくりに必要なことをなにも知らないでスタートした。
 原則として書き手を見つけて依頼して原稿をまとめるのだが、書き手がいなければ自分で書くこともあった。そこでは、長い文章になるため、むしろ記者からは「そんなの書けない」と言われた。「どうしたら書けるのか」とも言われた。
 そこには9年ぐらいお世話になった。突然、別の雑誌の創刊メンバーにと誘われ、何度か面談ののち転職した。新雑誌の副編集長。そのポスト以上に「一般向け」であることが魅力だった。今度は自分で書くことは100パーセントなくなる。それでもいい。雑誌編集をとことん味わいたかった。
 そして、実際、とことん、味わい尽くしたと自分では思っている。
 その後フリーランスになった。
 破裂していた自分が、破裂したままで生きていける。そういう道を見つけることができたのは幸運だった。だから、これはもう、納得なのである。これ以外の道はなかったとさえ思える。いや、細かいことを言えば分岐点はもっとあったから、別の道だってあったろうけども。
 少なくとも、いまもこうして書いている。そういう道で生きている。
 
 
 
 

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