134 なにをやるか、どこまでやるか
最初の選択より最後の選択
やることがない、やりたいことがない、なにをしたらいいのかわからない、といった事態に陥ったとする。
実は本心からそう思うことはないはずで、実はやりたいこと、やるべきことは明確なことが多い。それなのに、そこに素直に手をつけられない理由がある。つまり、やりたくない。やりたくない中で、それでもなんとかしたいので、悩むのだ。
そういう時、私なりに考えるのは、最初の選択より最後の選択の方がよほど重要なのである。
確かに、最初の一歩を間違えると、結果は期待と大きく外れてしまう可能性はある。では、その期待とはなんだろう。
なにもしないうちに、結果を予測して期待するのは自由であるし、好きなだけ予測、あるいは妄想しても構わない。
だけど世の中では、そうした期待値と結果について、正確な検証を行うケースはほとんどないことにも、あらかじめ理解しておきたいのである。
結果がすべて。確かにそうだけど、その結果が予想、期待通りかどうかは、別にそれほど大きな問題ではないのである。
オムレツを作ろうとしたのに、結果的にスクランブルエッグになったところで、出来上がったスクランブルエッグの味だけが重要なのであって、「本当はオムレツにしたかったんだ」といった思いについては、大した問題ではない。
つまり、おいしいスクランブルエッグが出来てしまえば、最初になにを思っていようとどうでもいい。むしろ慎重に進めた結果、オムレツが完成したとして、それがおいしくなければどうにもならない。失敗以外の言葉は浮かばないだろう。
では、なにが重要だったのか。それは、最初の選択ではなく、最後の選択である。おいしくないかもしれないけれど、とにかくオムレツらしいオムレツを作らなければならない、と断行したのは、実は最後の選択である。おいしくないかもしれない、と気づいた段階でなにかをするべきだった。
一方、「あ、これオムレツにならないや」とわかったときに「じゃ、スクランブルエッグで」と最後の選択をすることで、その玉子料理は救われたのである。
どこまでやるかを、いつ決める?
それと似たようなことに、「なにをするか」よりも「どこまでやるか」が大事ってこともある。
なにをするのか。したいのか。決めることが難しいことも多い。だけど、とにかくやってしまう方が世の中ではうまく行く可能性は高まる。どんなことでも、やらないと結果は出ないからだ。
だから、どんなことでも、やる前にあまり時間を掛けすぎない方がよくて、とりあえず半歩だけでも進んでみることで、いろいろわかることが多い。迷うより進め、である。
ところが、この「とにかく進め」は、多くの人を不安にさせる。メチャクチャ不安なのである。「行くぞ! 黙ってついて来い」ほど怖いことはないのだから。
とはいえ、先に伝えたようにいくら事前に予測、予想、期待したところでやってみなければわからないことの方が多いのだから、「行くぞ!」と行っちゃうのは「あり」だ。ただし、そこで不安を少しでも取り除くために「どこまでやるか」を明確にしておくといい。
オムレツを作ろうとしたのに、うっかりぐじゃぐじゃのままで固まるぐらい火が強すぎたことにあとで気づいたとき、つまり「火が強すぎた」とわかった段階でオムレツを諦める。本来、スクランブルエッグだって、火が通り過ぎたら失敗なのだけれど、オムレツのカタチになっていない状態なら、火が通り過ぎたスクランブルエッグの方がまだマシかもしれない、と判断するのである。
「これは、ムリ」と感じたときにどうするか。それをあらかじめ考えておきさえすれば、「とりあえず進もう」は特に大きな問題にはならない。むしろ進むことによって得た情報や知識は貴重である。なにもしないで調べたことだけで埋もれてしまうのと違い、経験値を得られる。経験値はやった者だけが得られるのだ。
やりすぎたとき
恐らく、「やり切る」ことは誰にでもできることではなく、それができる人はすごいと思う。かく言う私も、いろいろなことを途中で離脱して、やり切ったことはあまりない。だから、素直に、結果はどうあれ、やり切った人は尊敬してしまう。
むしろ、心配なのはやりすぎている人である。
火が通り過ぎてボロボロで固まっている玉子を、力技でオムレツ状に固めてみる、ということだって確かにできないわけではない。しかしもうそうなってしまったらむしろ食べにくい上に、「なんでそうしたのか」と疑問さえもたれるだろう。では、失敗と気づいた段階で捨てて作り直すべきだったのかといえば、貴重な食べ物をいきなり廃棄するなんてムリ。
こうしてやりすぎていると、さまざまなことが、手枷足枷となってきてむしろ動きが取れなくなっている。「やるっきゃない」と覚悟を決めるのは自由であるが、そこに巻き込まれた人にとってはいい迷惑だ。
やりすぎに気づいた段階で、残された出口を見つけて飛び出す(あるいは飛び降りる)。または、これはさらに難易度が高いけれど、やりすぎを肯定せざるを得ないような出口を生み出すしかない。
火が通り過ぎたボロボロの玉子を、たとえば炒飯の具にしてしまう。マヨネーズとあえてサンドイッチに入れてしまう。その他、オリジナリティのある出口を見つけてしまえば、こっちのものだからだ。
以上、今日はかなりまじめに、役に立つnoteを書いたと言えよう。
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