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30 情熱と執着の反比例

noteを書くってこと

 このnoteをはじめて最初にしたことは、『微睡みの中で恋をして』というマガジンの制作だ。このマガジンに毎日記事を書くことにして今日で30日。30話目である。
 どんな表現(芸術、音楽、小説、俳句、ダンスなどなど)でも、最初にそれを生み出すときの情熱の大きさは、人生においてもそれほど何度も得られたりはしない、貴重なものだ。
 一方、情熱と勘違いしやすいのが執着だ。
 人間は最初は情熱によって突き動かされるとしても、それは長く続かない。常に情熱を燃やすことができればいいのだが、それは簡単ではない。それでも、始めたことは最後までやり通そうとする人もいる。その時に生まれてくるのが執着だろう。
 つまり情熱は時間とともに右下がりになっていき、執着は時間とともに右肩上がりになっていくのではないだろうか。
 この30日目にしてはじめて、私もいまは執着を強く感じていて、そこに情熱の欠けらが残っているのかどうか、確認したいようなしたくないようなそんな気分だ。葉加瀬太郎のバイオリンが頭の中で激しく鳴るばかりである。

執着を飼い慣らす

 情熱がどこから湧き出てくるのかわからず、その後は執着にまみれていくとするなら、情熱の源泉を探ることも大切だけど、同時に執着をコントロールできなければ悲劇が待っているような気がしてならない。
 執着を断ち切ることは「やめた!」と宣言すればいいだけのことだが、これがまた、なかなかそうはいかない。
 どちらかと言えば、私は見切りをつけることが早く、なおかつ、そうしたことを後悔するかといえば、むしろ忘れてしまう方だ。それでも、いろいろな執着が日常の私を突き動かしている。
 なんでそんなことに執着するのだろう。
 昨日、ドラマ『すべて忘れてしまうから』の1話と2話を見た。原作は燃え殻によるエッセーだ。「週刊新潮」に連載しているコラム『それでも日々はつづくから』を毎週楽しみにしている者として、エッセーの映像化がどうなるのか、楽しみだった。そして、そこには確かにエッセーから感じる空気感があった。人は日々生きている。ああでもないこうでもない、過去と現在の錯綜、そしてどうしようもない未来。できることをしよう、というのも、そう簡単ではないよね。
 以前、ジェーン・スーのエッセー『生きるとか死ぬとか父親とか』もドラマ化されてとてもよかったので、今回もしばらく見るつもりだ。
 そして、ここでも大小さまざまな執着の痕跡が見て取れる。ということは、人が生きるってことの多くは、執着に起因しているのかもしれない。
 情熱的に生きる方が理想に見えるけれど、現実としては執着の中でもがくのだろう。タイトルは『すべて忘れてしまうから』というのに、そう簡単に過去は消えないし、「忘れてないでしょうね」とふいに突きつけられてしまうこともある。

執着のカゴ

 なにかに固執する(自分に固執する、他人に固執する、事物に固執する)と、それはかなり異常な世界になっていくのだが、試しに「執着」で検索してみればわかるように、精神疾患のオンパレードになってしまう。
 だけど、なにかに執着しないと毎日を生きられないのなら、たぶん、執着を飼い慣らすためには、対象を的を絞らず複数にしてしまうのはどうだろう。
 かつて金融系のライターをしていた頃に最初に覚えたのは「玉子をひとつのカゴに盛るな」であった。これは投資のポートフォリオの話で、なにかひとつに全財産を投資するようなことはやめて、複数の投資先へ分散投資しようね、という話だ。また、投資先だけではなく投資のタイミング(時間、時期)も分散しよう、という話。一度に投資するのではなく積み立てる。ドルコスト平均法というやつ。幸い、現在、この発想は一般的になっている。
 だとすれば、自分の執着も分散させてみるのである。
「いや、分散したら執着じゃないでしょ、そもそも」と言われるだろうが、あえて分散する。
 いまではかなり崩れてきているのだが、以前はスポーツのシーズン制がはっきりしていた。春から夏に野球、秋から冬はフットボール、みたいなものだ。アメリカの大学スポーツはこのシーズン制によって、優秀なアスリートは野球とバスケ、野球とフットボールみたいな掛け持ちが可能だと言われていたし、実際、プロになってもMLBとNFLを掛け持ちしていた選手もいた。
 季節が変われば気分も変わる。そのたびに執着の対象を変えていくことはできるかもしれない。なんだか少しだけ、長持ちするような気がする。
 このnoteについて言えば、書く内容、つまり執着の対象を複数持つことで続けられそうな気がしている。
 とはいえ、いま自分の抱えているカゴには、大したものがないので、それはそれで問題がありそうだけれど、いまさら情熱なんて恥ずかしいし、それがどこにあるかもわからない以上、目の前の執着を活用したらいいんじゃないの、Uberでいいんじゃないの、という気がしている。Uberで情熱が届けばそれはそれでいいんだけど、そんなことはないだろうし。いや、本当にそんなことはないのだろうか。
 

 


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