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263 意味のあるなし、誰が決める?

意味ないこと

 ついつい「こんなことをしても、意味ない」とか「そんなの意味ない」とか「無意味だ」と言いたくなる。生きていると、だいたい毎日のようにそう言いたくなる。この「意味ない」の断定は、やった者勝ちなところがあって、自分で判断するならまあいいとしても、人に言われるとカチンときたりグサッときたりするように出来ている。
 自分自身で自分の行動に「意味なし」と判定するのと、人に言われるのとでは大きな違いがある。自分なりに納得しているときに言われる場合、意味について意識せずに行動していたときに言われる場合の、だいたい2通りがある。
 つまり、「こんなことしても意味ないな」と自覚。それでも「やらないよりやった方がいい」と納得したところで、こうした葛藤をろくに知りもしない他人から「意味なし」の判定をくらうと、感情的に厳しい反応になってしまう。自棄になる人もいるだろう。
 また、そもそも意味など考えずに夢中になって取り組んでいるときに「意味ない」と指摘されたときは、「ハッ」としつつも「自分はいったい、なにをやっていたのだろう」と虚しさにも襲われてしまうだろう。

意味のあること

 一方、意味のあることについてはどうだろう。意味があるんだ、と自分で納得しているときと、「意味がある」と他人に評価されたときでは、やはり違いがある。
 ここでも、優先されるべきは自分だと、私は思っている。「意味なし」を判定しなおかつ納得することも、「意味あり」を評価し満足することも、自分の価値観を優先していい。それが「自由」な状態だと思うから。
 他人評価、他人の判定ほど難しいものはない。受け止め方の問題である。「意味ない」と判定されても「意味ある」と判定されても、その後の自分の受け止め方次第で次の行動は違ってくる。素晴らしい賞を獲得して多くの人から「意味あり」と判定されたとしても、当人が納得していなければ、それは「意味なし」なのだ。
 だとすれば、どうせ自分で納得しさえすればいいのだから、「意味あり」を増やした方がいいんじゃないか。お得なんじゃないか。
 要するに「意味あり」とは、自分の価値観で「こうだ」と思ったことが、他者にとっても「そうだ」となればいい。「いや違う」となれば「意味なし」となっていく。
 問題なのは、そのときの他者である。他者といっても、自分との距離もあれば、人数もある。少数ならわかりやすいが、多数になると正直、全員が同じ気持ちかどうかわかりようがない。
 映画『アルマゲドン』では、地球に衝突する小惑星を回避するために命をかける人たちを描く。もし、あのドラマですべてが終わったあとに計算し直したら「いや、実はなにもしなくても軌道は逸れていた」とわかったとしよう。そうなったとき、彼らの勇気や犠牲に意味はあるのか、ないのか? あるいは彼らの行動によってさえも軌道は完全には変わらず、地球の半分ぐらいに絶望的な被害が発生したとしたらどうだろう?
 シェイクスピアの悲劇の多くは、冷静に見ると「意味なし」に近いものを私は感じている。だからこその悲劇だ。意味のないことに生涯を捧げることは悲劇。そう言って間違いはないと単純に決め付けていいのかな、と私は思う。夢中になっていた当事者は、その行為そのものに意味を見出しているかもしれない。
 ドン・キホーテはどうだろう。ミュージカル『ラ・マンチャの男』は、陽気な悲劇である。しかしエンディングは悲劇のままに終わらない。あの高揚感は絶望的な「意味なし」に命をかけているからこそ得られたのではないだろうか?
 そう思えば、「意味なし」でさえも「意味あり」と強引に主張できる気がする。

細かいパーツは難しい。


 
 
 
 

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